体のなかの野生
2010.11.21 Sunday
“ひとは、こんなに膨大な数の利器に頼らなくても、自分の体を使って、自然界と直接触れ合いながら恵みを得て生きていける。”
この想いが山での暮らしをはじめることとなり、そしてこのブログを書くこととなりました。
こんにちは、大口のまです。
このブログをはじめてから月日が経ち、さまざまなこころみとともに生活を綴って来ました。やまの暮らし、自然界との結びをたしかめながら生きること。
まだまだこころみていない事柄はたくさんあって、はじまったばかりだと思います。けれど、このこころみを通して、やまの恵みで生きることはできるんだ、人は、自然との結びを感じることができるんだ、ということは確かめられたと思っています。そしてそれを、このブログを読んでくださった方に伝えることが、できたと思います。
やまで生きたいと願っているひとに、それは十分可能なんだよ、と知らせることは、このブログを書いた大きな目的です。ここに書いてきたことで、生き方の道しるべとなるものが少しでもあって、役立ててもらえれば嬉しく思います。
おれは都会の真ん中で生まれ、育ちました。コンクリートに埋め尽くされた地で、自由に息のできない空気の中で育ちました。医者からは虚弱体質ぎみと言われたこともある都会育ちのおれが、やま(自然界)で生きたい、そう最初に念じていたのは5〜6歳のころだと思います。ものごころついたときから、すべての生き物、すべてのモノにこころがあり、それがなによりも親しみを感じる存在でした。
いま、体は十代のころよりもますます動き、心とともにさらなる自由への広がりを感じています。
* * * * * * * *
今年に入ってから、大きな変化がありました。たくさんの出来事の中で、おれは過去を振り返りました。東京に住んでいたときの過去が、いまのおれに何度となく呼びかけてきました。いえ、いままでもそうだったのですが、それを聴くことがおれにはできずにいたのです。
過去のすべてを、体は覚えています。生まれる前からの、胎児からのすべての記憶を、体はきちんともっています。
辛い出来事に遭遇したとき、意識はそのできごとを閉め出そうとすることがあります。おれは、知らず知らずにそうして来ていました。相談できる相手が誰もいない子供のおれにとって、そうすることでしか自分をまもることができなかったからです。それは生き残るために必要なことだったと思います。
けれどそれは、自分の体のことを無視することだったのです。おれをこの世界にとどまらせてくれている、たった一つのおれの体を、おれは永いこと無視して、耳を塞いできました。体と心(意識)は分離して、噛み合わない歯車のように、お互いを翻弄することから避けられなくなっていました。
今年おれは、あるきっかけをもとに、体の声をしっかりと受けとめ始めました。たくさんの痛かったこと、辛かったこと、悲しかったことを一身に抱えたこの体が、おれを守ってくれていたことに気付きました。体がその痛みを引き受けておれの心を守ってくれなければ、おれはまともでいられなかったと思います。
いまのおれは、逃げることなく、あの頃の痛みを受け止めることができるようになりました。体に感謝しつつ、痛みのひとつひとつを受け止め、体と心で共有しようとしました。
そのたびにおれは、軽く、楽になっていくのを感じます。
分離していた体との結びを取り戻していくこと。
この体は地球が生み出した生物のひとつ、おれが地球からかりている、自然そのものなんです。
体のなかに野生が生きています。
この野生の生き物は、つよい生命力をもっていて、それを発揮することを楽しみながら、おれたちを生かそうとしてくれています。たとえ辛すぎる出来事から心が閉ざされてしまったとしても、体はいつも耐え続け、心の目が体に向かうのを待ち続けています。
やまで暮らし自然界にできるだけ近づいていく生活を求めるなかで、いまのおれにとって、もっと必要なことが、自分の体の野生を本当の自分のものにすることだ、と感じています。
いまはこのこと、自分の体をよりよく、より楽しく使える・生きられるようにしていくことに、全力を注ごうと思います。四十年近くを生きることをともにしてくれているこの体の、何一つも無視しないで受け止めて、きちんとひとつになって、ひとり立ちできるようになることがまず必要のようなのです。
そんなわけで、いままでのように暮らしのなかでのことを書き綴ることは、あまりできなくなりました。
体のこと、体を通して自然界を知ることについて、そのうち新しくブログを書きはじめるかもしれません。その時また、読んでいただけたら幸いです。
それではまた、お目にかかりましょう。
どこに生まれ、どんな環境に育とうとも、いのちはいのちのちからで生きています。
あなたの体にも、野楽は生きている。
この想いが山での暮らしをはじめることとなり、そしてこのブログを書くこととなりました。
こんにちは、大口のまです。
このブログをはじめてから月日が経ち、さまざまなこころみとともに生活を綴って来ました。やまの暮らし、自然界との結びをたしかめながら生きること。
まだまだこころみていない事柄はたくさんあって、はじまったばかりだと思います。けれど、このこころみを通して、やまの恵みで生きることはできるんだ、人は、自然との結びを感じることができるんだ、ということは確かめられたと思っています。そしてそれを、このブログを読んでくださった方に伝えることが、できたと思います。
やまで生きたいと願っているひとに、それは十分可能なんだよ、と知らせることは、このブログを書いた大きな目的です。ここに書いてきたことで、生き方の道しるべとなるものが少しでもあって、役立ててもらえれば嬉しく思います。
おれは都会の真ん中で生まれ、育ちました。コンクリートに埋め尽くされた地で、自由に息のできない空気の中で育ちました。医者からは虚弱体質ぎみと言われたこともある都会育ちのおれが、やま(自然界)で生きたい、そう最初に念じていたのは5〜6歳のころだと思います。ものごころついたときから、すべての生き物、すべてのモノにこころがあり、それがなによりも親しみを感じる存在でした。
いま、体は十代のころよりもますます動き、心とともにさらなる自由への広がりを感じています。
* * * * * * * *
今年に入ってから、大きな変化がありました。たくさんの出来事の中で、おれは過去を振り返りました。東京に住んでいたときの過去が、いまのおれに何度となく呼びかけてきました。いえ、いままでもそうだったのですが、それを聴くことがおれにはできずにいたのです。
過去のすべてを、体は覚えています。生まれる前からの、胎児からのすべての記憶を、体はきちんともっています。
辛い出来事に遭遇したとき、意識はそのできごとを閉め出そうとすることがあります。おれは、知らず知らずにそうして来ていました。相談できる相手が誰もいない子供のおれにとって、そうすることでしか自分をまもることができなかったからです。それは生き残るために必要なことだったと思います。
けれどそれは、自分の体のことを無視することだったのです。おれをこの世界にとどまらせてくれている、たった一つのおれの体を、おれは永いこと無視して、耳を塞いできました。体と心(意識)は分離して、噛み合わない歯車のように、お互いを翻弄することから避けられなくなっていました。
今年おれは、あるきっかけをもとに、体の声をしっかりと受けとめ始めました。たくさんの痛かったこと、辛かったこと、悲しかったことを一身に抱えたこの体が、おれを守ってくれていたことに気付きました。体がその痛みを引き受けておれの心を守ってくれなければ、おれはまともでいられなかったと思います。
いまのおれは、逃げることなく、あの頃の痛みを受け止めることができるようになりました。体に感謝しつつ、痛みのひとつひとつを受け止め、体と心で共有しようとしました。
そのたびにおれは、軽く、楽になっていくのを感じます。
分離していた体との結びを取り戻していくこと。
この体は地球が生み出した生物のひとつ、おれが地球からかりている、自然そのものなんです。
体のなかに野生が生きています。
この野生の生き物は、つよい生命力をもっていて、それを発揮することを楽しみながら、おれたちを生かそうとしてくれています。たとえ辛すぎる出来事から心が閉ざされてしまったとしても、体はいつも耐え続け、心の目が体に向かうのを待ち続けています。
やまで暮らし自然界にできるだけ近づいていく生活を求めるなかで、いまのおれにとって、もっと必要なことが、自分の体の野生を本当の自分のものにすることだ、と感じています。
いまはこのこと、自分の体をよりよく、より楽しく使える・生きられるようにしていくことに、全力を注ごうと思います。四十年近くを生きることをともにしてくれているこの体の、何一つも無視しないで受け止めて、きちんとひとつになって、ひとり立ちできるようになることがまず必要のようなのです。
そんなわけで、いままでのように暮らしのなかでのことを書き綴ることは、あまりできなくなりました。
体のこと、体を通して自然界を知ることについて、そのうち新しくブログを書きはじめるかもしれません。その時また、読んでいただけたら幸いです。
それではまた、お目にかかりましょう。
どこに生まれ、どんな環境に育とうとも、いのちはいのちのちからで生きています。
あなたの体にも、野楽は生きている。