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山あいで狩猟採集生活を目指す野楽生(のらぶ)のあしあと

野楽生れば

続、鹿解体・後編
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    吊るした鹿の皮を剥いでから、各部位ごとに肉を分けていく。(皮の剥ぎ方については「鹿解体」「ナイフの柄のかたち マキリのマはマタギのマ?」に書いた。)肩(前足)と後ろ足を付け根から分け取った後、吊っている紐をはずして台に寝かせ頭部を取る。腹・肋骨の上の薄い筋肉(バラ)を取ってから、背骨にくっついている外ロースと内ロース(ヒレ)を取る。それから肋骨を背骨からはずし、一本となっている体幹の骨を骨盤・背骨・頸骨へと分けていく。

    前足の付け根、肩甲骨を胴体からはがす。




    ナイフの使いどころは筋肉・骨の間にある膜や軟骨で、肉を切る必要はあまりない。肩甲骨や大腿骨に直かについている筋肉をはがすときも“切る”わけではない。
    関節部の筋(すじ)は切る。筋(すじ)さえ切れば四肢は小さく分かれていく。

    死後硬直が解けた後で解体をするとこの作業がたいへんに楽なことがわかった。筋肉と筋肉のわかれめが見つけやすく、手を差し入れるだけで膜が裂け分かれ、刃で切る必要がないことも多い。筋(すじ)もとり分けやすい。また骨にへばりついている筋肉も、シールをはがすようにきれいに剥けていく。
    肉は熟成したように柔らかな重量感をもって旨そうだ。刃を使って切り分けるときは肉を傷つけてしまうことがあるのだが、硬直が解けた後は肉汁がほとんど出ない。そもそも分けやすいので傷をつけることが少くなる。

    初めて解体をした時分は力にまかせていたため、ナイフの先を曲げてしまったことすらある。数を重ねるたびに鹿の体のことを覚えていき、どこをどうすれば分かれていくのか、わかるようになってきた。作業の途中に刃を研ぎ直すことも少くなった。
    荘子の著にある「庖丁解牛」という文を思い出す。
    「庖丁」とは日本語の包丁の語源となった語で、「庖」は料理人・調理職人のこと、「丁」は名字、または某(なにがし)というほどの意味で、ここでの「庖丁」とは一人の料理職人を指している。

    『庖丁解牛』

     庖丁が文恵君の為に牛の解体を行った。手で触れ、肩を掛け、足を踏み、膝をつけ、刀の遅く速く動くにあわせて発する音は奏でる旋律としか思われず、あたかも舞踏の伴奏さながらに鳴り響いた。
     文恵君が讃えて言うに、
    「見事なもの。技も極まるとこのようなものか ! 」
     庖丁は刀を置いて返答する、
    「私の求めておりますのはものごとの理(ことわり)です。それは単なる技とは一線を画すものです。初心の頃、私の目を占めるのは牛の全体像のみでした。しかし三年の後、牛の全体は私の見るところではなくなります。今に至っては心によってとらえるのみで、目には映らずとも思いのままに行うことがかないます。自然の与えたもうた肉体の組織にしたがい、筋骨の隙をつき、刃は切るべき箇所へと導かれ、行くべき所へと走ります。筋が入り組んだところ、硬き骨の結合もものともしません。
     腕の良い者でも一年経てば刀を取替え、一般の者は月ごとに刀を駄目にするものです。しかし今、私の刀は十九年の歳月を使い通し、解体した牛は千を数えますが、刃の鋭さは研ぎおろしたばかりと同様に冴えています。筋骨には必ず隙間があり、刃は厚みをもたぬものです。厚みのないものを隙間に刺し入れるのは広々としたところを自在に遊ばせるようなもの、かようであれば十九年といえども刃は新しいままでありましょう。
     そうは言いましても、筋腱節骨を前にする度に、私はその難易を見極め、慎重に事に対します。眼は確かに対象を捉え、あせることなくゆっくりと、刀の動きは繊細軽微をもってします。“フッ”と音を起てて解体が終わるその瞬間、それぞれの肉塊は土のように積み上がって私の眼前に存在します。私は刀を手に提げたまま、作業のすべてを顧み、心残しのないことをたしかめて、はじめて刀を拭い鞘に収めるのです。」
     文恵君は言う、
    「すばらしい ! 余は庖丁の語るを聞いて、養生の道を得た」
             訳:大口のま
          参考書籍:貴州人民出版社「荘子全訳」(中国語)


    技は術につづいている。術は道へと近づいていく。

    そして、動物の体を解体することは、身体について学んでいくことでもある。どの部分の筋肉がどこの骨と繋がっていて、どんな動きを可能にしているのか理解できる。体内にある筋肉(肋骨の中にある内ロース等)が、体の軸を支える重要な役割を果たしていることも、見て感じることができる。
    また、罠で捕らえた獲物は逃げようとして怪我をしていることがある。打撲部分の皮下は黄色い膜が膨(ふく)れ筋肉を覆っている。腫れているというのはこういうことか。さらにひどい打ち身で内出血している筋肉は痛々しい。膜の膨れと違って、こちらは完治するのにずいぶん時間がかかりそうだ。関節に近いところで筋肉膜にくっついて、豆のような塊をみつけることもある。傷を直すためのリンパ球だろうか。

    解体は、食料だけでなく様々なものを与えてくれる。おれが経験したのはまだ数回だけれど、解体を知る前と後では身体に対する知識―――実感が違う。自分や他人の体を考える時、以前にはなかった豊富なイメージが持てるのだ。
    縄文時代のひとびとや狩猟採集の民、生きるための作業を自分たちでおこなっていた、分業をしないひとびとは、たとえば解体を通じてもさまざまな智恵をわかちあっていたのだろう。
    縄文人の身体知識は、現代人とは比べものにならないくらい実感をもって、実際に役立つ、自分自身と一体となった智恵だったのだ。


    四肢をばらして背骨を分けた頃にはへとへとに疲れている。冷蔵庫に納まるようにしたことでその日の作業は終える。翌日以後できるだけ早いうちに、頭部の皮を剥いで頬肉を切り取り、上下の顎をつないでいる筋(すじ)を切って関節をはずし舌(タン)を取る。最後に竹の棒の先をスプーン状につくった道具で脳を掻き出す。皮鞣し用だ。
    四肢はさらに関節(人間でいえば膝・肘)をはずし、束になって付いている大腿筋やふくらはぎの筋肉をばらして一つひとつの状態に分けていく。


    肉を取ったあとの骨は大鍋に入れて囲炉裏で煮込む。これで何日もスープがとれる。骨髄が溶け出したスープは濃く、味はしつこくなくて、栄養たっぷりだ。
    頭骨も煮る。取り外せなかった肉や軟骨も煮出していくうちにはがれていき、うちの家族のお腹に納まり、そして血肉となっている。



    生きている姿を見、殺し、食料として目の前にあるもの。食べるときに感慨のないはずがない。口のなかの味と食感に、生きている鹿の姿が強く感じられる。
    鹿を狩って食べる、その経験は他のものを食べるときにも影響した。パンを食べても小麦の姿が思い浮かぶのだ。風を受けてそよぎながら育っている小麦の姿。
    しかし、そのイメージはいつでもやってくるわけではない。あわただしく時計を気にしているうちに摂る食事には、そんなことを感じるべくもない。まずはひとつひとつの食事にゆとりをもって、鹿の姿、地に根ざして生えている草たちの姿を思いえがいてゆきたいと思う。
    鹿たちもまた、草たちを食べて生きてきた。


    煮出し終わった骨は、またいろいろなことを教えてくれる。そして様々な道具と成る道を秘めている。
    けれどもそれを書くのには、また別の機会を設けようと思う。

    ※関連記事
    鹿バラ肉角煮   (2008.12.21)
    罠という狩り   (2008.10.14)
    槍の柄作り〜野生の狩人をめざして   (2007.11.16)
    猟期前   (2007.10.25)
    | 狩り | 21:26 | comments(6) | trackbacks(0) | - | - |
    続、鹿解体・前編
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      前記事の終わりで書いたように、罠猟で鹿を獲った。その解体について書く。
      以前「鹿解体」という記事を書いたけれど、その時には書かなかったこと、またその時とは違うこともある。熊つぁんに教わったことを基にしながら、時間をかけてじっくりと鹿の身体に向かい合いすすめていく作業は、一回ごとに学びがある、自然からの教えだ。なるべく詳しく書いたため長文となったので、前後編に分けることにする。

      解体は内臓を出すことから始まる。内臓を出す前に皮を剥ぐやり方もあるそうだが、おれはまだやったことがない。丁寧に皮を剥ぐには結構時間がかかるので、新鮮なうちに心臓・肝臓などを取り出したいため、また沢辺で洗いその後吊るすといった段取りの都合、皮を剥いで露出した肉に汚れ(砂・毛など)が着かないため等から、まず内臓をとるやり方をしている。

      最初に、開く部分の皮を裂く。胸の一番上の肋骨が始まるところあたりからナイフを入れ、肋骨、腹部、会陰へと切る。次に肉を切って開く。やはり胸の上の肋骨の始まりからナイフを入れ、肋骨と鳥骨(胸の真ん中の合わせにある骨)のつなぎ目を切り離していく。骨を断つ、という印象があるが、骨と骨のつなぎ目は上手に刃を入れれば力を入れなくとも離れていく。鳥骨に接しているのは軟骨であることも、切り離しやすい大きな理由かも知れない。

      一本一本肋骨を切り離してゆきながら、内部の臓器を傷つけないように気をつけなくてはいけない。肋骨内部に手を入れて臓物との間に隙間をつくる。この時、火傷するかと思うほど熱い体温に、背筋が引き締まる思いがするのは毎回変わらない。
      心臓、肝臓はこの段階で取り出すことが多い。傷の無い臓器は、熱い血のなかから生まれた、美しい姿をしている。生を、感じさせる。

      胸が終わり腹部を切る。骨はないので切っていくのは腹筋だけだ。二足歩行の人と違ってその筋肉は薄く柔らかい。バラ肉だ。ここでも内臓を傷つけないように手を入れる。腸を傷つけて中身を出すと臭いからだ。中身が出れば臭いが肉にうつってしまうこともある。筋肉と腹膜の間に手を差し入れながら慎重に腹筋だけを、腰骨の前部まで切り開いていく。切り進む時、刃が繊維を裂いていく音が聞こえるようだ。ピンと張った上等の布を切るように、刃の動きに沿って肉が分かれていく。

      腹をすっかり開けた後、肛門周囲を丸く切り、直腸を手で掴んで中身が出ないように絞りながら、腹の内部を逆進させて開口部から外へ出す。
      この作業は正直いって苦手である。糞で手が汚れるのもいやだけど、それ以上に局部へ手を出すことに対しての強い抵抗感がある。鹿に申し訳ない思いがするのだ。
      けれどもそんな抵抗感が理由で、思い切りがわるいまま作業していて中途半端な処置をし、周囲の肉を汚して食べられなくしてしまったこともある。そうやって無駄を作ることを避けるためにも、やるからには、手を汚すことを恐れて中途半端にするわけにはいかない。鹿への申し訳なさをいっそうの感謝の念に換えながら、作業していく。

      直腸につづいて、胃と腸のすべての消化器官を腹膜からはがしつつ、まるごと体外へ出す。脂肪ののった腹膜は煮込むと美味しいスープになる。胃を取り分け、切り広げてよく洗う。消化途中の内容物は少々臭うが、みな草の繊維だ。水洗いできれいに落ちていく。
      腸も、お湯を使ったりしてよく洗えば食べられるのだけど、おれとおかマタギの二人だけで解体をするのはかなりの労力と時間を要し、皮、肉、骨、心臓肝臓胃、脳を処理するだけで手一杯となってしまう。残念ながらいまのところその他の臓器は山に棲む鴉たちの食べるままにしている。

      内臓を取り出した体内を沢の水で洗い流し、家の中に運んで皮剥ぎに取り掛かる。


      この冬(昨冬)から心がけたのが解体する時間帯だ。動物の身体は死後硬直する。気温でも左右するが、死後二時間くらいから筋肉が硬くなっていく。硬直前もしくは硬直中に解体をした肉は、肉汁が出てしまって旨みが減り、また料理しても硬くて食べにくいという。おかマタギの知識をもとに、できるだけ硬直が解けるまで解体しないよう気をつけてみた。

      皮を剥ぐのにはあまり影響がないと考え、吊るしてからすぐ剥ぎにかかったが、作業中も硬直は進む。どうも硬直前より硬直中・硬直後の方が皮も剥ぎやすい気がした。
      そして肉の解体に関しては、硬直前後で大きな違いがあった。

      後編へ続く。
      | 狩り | 20:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      罠という狩り
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         槍が出来上がったのでいよいよ罠を仕掛ける。熊つぁんに教わりながら作った罠だ。
         仕掛け方は一度見学させてもらっただけ、あとは熊つぁんの語ることばや表情から読み取った雰囲気、そして山歩きしながら沢山の鹿の足跡を見てきた経験をたのみとしての決行だ。自分の人臭をいかに残さないようにするか、鹿の歩幅は、などなど考えながら作業するものの、経験の無さからくる不安は消えない。成功の場面を思い描いても、蝕感をともなわないそれはどうしても現実感に欠ける。
         一方で、この罠によって命を落とすことになる鹿のことを想う。本来ならば(野生のおきての上ならば)元気に生き、山を駆け巡り子供を育てていく者かもしれない。おれの狩りの介入はおきてにそむく行為となりはしないか。不安と罪悪感に、答えは出ない。

         「狼がいなければ、鹿の種族は絶えていた」
         「狼が鹿たちを狩ることで、鹿はつよい種族となっている」
         ずいぶんと前に生物学の本で読んだことやインディアンの狩人のことばが甦る。生きるために狩りをすることは、野生の世界の秩序の一つだ。おきてを守り、礼儀(感謝)を知っての行いこそ、狩りだ。
         おれもそのような狩りをこころに描きつつ罠を仕掛け、山を下りていった。

         結果を述べると前猟期間中は一頭も獲れなかった。週末や祭日ごとに銃をもった人間が歩き回るようになる山に、鹿たちは避難の必要を感じ、さらに深い山奥へと逃げて行く。罠の様子を見にいくおれとしては、家からあまり離れた所へ毎朝行く時間を作りだせず、仕掛ける範囲はおのづと限界が決まってくる。
         仕事の都合等で猟期開始からしばらく経ってから仕掛けたために、罠の付近には新しい足跡が着くことは一度も無かった。罠で獲れるのは猟期後ひと月くらいだよと熊つぁんが言っていた、その通りだった。

         けれども、朝の空気の中で山を上っていくことは、深く、大きな経験だった。目覚めの意識の中で鹿のことを思う。着替えをし地下足袋を履いて槍を携えながら、家を出る身はどうしても緊張してしまう。これからおれは、命を獲るかもしれないのだ。ひとつの生命に終わりをもたらすのかもしれない。
         山道をあるくこころには祈りにも似た思いがある。
         鹿がかかっていなければいい。空振りの罠を確認して、なぁんだと胸をなでおろし、薪にする倒木を担いで帰ればその方がいいじゃないか。
         反面、鹿の肉がほしい。家族に持って帰りたい。おれたち一家が生きていく上でその肉は、多分に必要なものなのだ。
         矛盾している思いが二つ、常に気持ちの中にあるものの、それは不思議さを感じるものではなく、自然な、切ない心境だった。

         仕掛けた場所に近づくおれの耳は鋭くなっている。草葉を踏みつける音が大きなものに思える。鹿の気配はしないか。熱をもった息の声が聞こえはしないか。罠にかかった鹿から見れば、おれは死の形だ。
         倒木を持って帰宅し不猟を報告する時はすでに残念な気持ちが前面に出ている。明日こそはかかるといいのに、などと思ったりする。
         その繰り返しだった。

         だれかに、野生の狩りの掟を知っているひとに、その鹿を狩ってもいいのだよ、と許可してもらいたい。おれの行為を完全肯定してもらいたい。 しかしそれは虫の良い思いなのだろう。命の重さには自分自身で向き合い、迷いも苦しみも しょっていかなければいけないのだろうから。


         収穫の無かった猟期が終わり二ヵ月後、駆除申請という方法で再度罠を仕掛け、おれは二頭の鹿を獲った。



        ※関連記事
        槍の柄作り〜野生の狩人をめざして   (2007.11.16)
        猟期前   (2007.10.25)
        道ゆく鹿   (2006.09.24)
        罠を仕掛けに   (2006.03.21)

        ※よくコメントを書いてくださるalpheccaさんが、ご自分のブログで食べものについて・食べることについての考察を掲載されました。この記事でおれが書こうとしている内容と同じ本質のものだと思い、紹介いたします。
        縄文の風、たましいのこえ「殺すこと、食べること、生きること」
        | 狩り | 08:54 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
        兎解体
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          去年のこと。仕事を終えて山への帰り道、あたりは早くも夜の色に染まりつつあった。山と街をつなぐ谷間の国道は、それなりに交通量がある。

          道路の中央あたりに、はねられた兎が身もだえているのを視認した。反対車線の、次に車が来れば十中八九轢かれる位置だ。
          路肩に停車し車外へと飛び出しながら思考が閃く。選択肢はふたつ、轢かれない道路外へ移動させて逃がすか、止どめを刺して食べるかだ。

          近よって見るとかなり打撃を受けたように感じた。 ふつう、 野生動物は人間とは比べものにならない頑丈さをもっている。大型獣ならライフルの弾を数発被弾しても、急所でなければ怪我の様子も見せずに逃げ去るほどだ。車にはねられて骨折したくらいでは、動きがとれなくなることは無い。
          この兎が野生の者であることは一目見ればわかる。もがき動いている四肢に外傷が見られないことから、頭部に傷を負ったものだと感じた。

          ひょっとしたら、はねられた直後で脳震盪を起こしているのかも知れない。だとしたら道路の外の安全な場所へ寝かせておけば、しばらくすれば山に帰って行くはずだ。
          だが、かなりの出血があった。動き方からも、大きな傷を受けているように強く感じた。

          道路の真ン中でのんびりしているわけにはいかない。とにかく車に戻り、兎はトランクへ入れて移動した。
          駐車に充分なスペースを探しながら走らせる。その間、兎がトランク内で跳ねたりしている音が聞こえた。
          突然函の中に閉じ込められて、不安と焦りで狼狽しているのだろう・・・。自分のしていることがオキテにのっとったことなのか、自問の冷や汗が出る。

          路肩の外側に幅広い空間をとっている場を見つけて、なるべく道路からはなれた所に車を停め、エンジンを切る。兎に出逢ってから過ぎた時間は二、三分だろうけれど、ずいぶんと時が経った感じがした。
          兎は動きをやめて、静かになっていた。
          でも、死んでいるはずがない。そういう感じがしないのだ。
          万が一跳び出すことに注意しながら、トランクカバーを持ち上げる。兎は静かだった。完全に人間に捉えられた野生のものは、機を窺う緊張から小刻みに震えているものだ。それは武者震いと呼ぶに相応しい力強い戦き(おののき)だ。
          しかしこの兎は何か違った。強さを感じられなくなっていた。

          様子を見ながら、かれがはねられてからの時間を憶測してみる。脳震盪の場合、どれくらいで意識を取り戻し、逃げられるようになるだろうか・・・

          決定的な判断材料をおれはもっていなかったが、兎の姿、手に持っている感触から、勘にしたがって止どめを刺すことに決めた。

          山に暮らしていると刃物が重宝する。枝を払ったり木を伐って急ごしらえの杖や棒を作ったり、なにかと必要になることがある。おれはいつも鉈かナイフを持つようにしている。このときは両方を持っていた。兎にむかって、命をいただくことを念じ、ナイフで頚動脈を切る。けものの頸はこまやかな毛におおわれていて、意外に簡単にはいかないものだ。けれどもこのときの兎は抵抗がまったくなく、刃はその切れあじをすみやかに発揮した。
          自分が生きるに必要なとき以外、命を奪わないように、命を奪う時は出来る限り苦しむことがないように―――タシナさんの言葉は常にこころにある。

          命を獲ることの実感は重い。

          しかし、兎を食べられること、家族に持って帰れることは、とても嬉しい。
          殺しは楽しんではいけない。しかし糧を狩ることは、無上の喜びだ。




          帰宅してからお風呂場で解体にとりかかる。鹿のときと違い、小さくて軽いので作業はずっと楽そうだ。内臓を取るために腹を開くとそれだけ毛がくっつく面が多くなって洗うのが面倒になる。まず毛皮を剥いて、内臓を取るのはその後にする。


          喉から会陰まで裂き、さらに四肢の内側に切れ目を入れる。
          後ろ足から徐々に剥いていく。



          頸まで剥いてから、頭を切り離した。
          鹿よりも小さくて剥くときに力を入れやすいのか、あるいは脂肪が少いせいか、皮は剥がれやすかった。ただ、大動物より皮がうすくてやぶけやすい、と狸を皮剥きした龍の字が言っていたので、慎重に作業する。


          われながら上手に剥くことができた気がする。
          形見分けで貰った祖父のチョッキは裏地に兎の毛皮を使っていて、本当にあったかい。この毛皮で、やがてそんな衣類などを鞣し作れたらいいなと、空想をふくらませる。

          皮を剥いだら内臓を取る。そして四肢を取り分けるにとどめておいた。肉を骨からはがすことはしない。
          皮を剥ぐ時に、注意はしていても肉に毛がついてしまう。洗えば落ちるものだけど、水につければつけるほど肉の味が逃げていってしまう。できるだけ無用に作業することのないよう、毎回考えながら解体していく。

          頭は、皮を剥いでから頬肉や頸のまわりの肉をとる。

          なぜ思いつかなかったか不思議なのだが、頬肉をとったりせずとも頭ごと鍋に入れてしまえば一番無駄なく食べられたのだ。この時は鞣し用に脳を掻き出した後、頭部は野にかえして鴉や小動物が食べるにまかせた。頭骨からもいい出汁がでたのになぁ。

          頬肉をとる時、片側の頬のあたりの骨が細かく砕けているのに気づいた。顎がはまらなくなっており、内部への傷も小さくないと感じた。これが致命傷だったのだと思う。

          * * * * * * *

          数日後、おかマタギが腕を振るう。



          熱い鉄鍋に置いた肉はたちまち香ばしい匂いを上げはじめた。ほったらかし畑で育ったにんにくは、小粒でも強力な深い香りと味わいがある。かといって肉の味を壊すことはなく、とてもよく合った。



          切り分けてから、スープスパッゲッティーに載せる。




          肉汁――旨みを逃がさないように細心の工夫をしてあるため、兎肉の野生の味わいがたまらなく美味い。
          肉はさすがに柔らかかった。鶏肉のようだとよく聞くが、調理後の姿は、知らなければ鶏肉と間違えるかも知れない。食べてみて、柔らかさと癖の無さはたしかに似ている。
          けれども“濃いい”この味は兎だけのものだと思う。

          鹿肉とはまた別の、とても豪勢な一食だった。
          | 狩り | 23:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          猟期前
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            猟期が近い。
            罠を仕掛けるための準備をいろいろと教わるため、熊つぁんのお宅を訪問した。夕刻に到着し薪ストーブが温まったころ、毘沙さんと梵天丸くんもやって来た。大蒜たっぷりの鹿肉炒めを肴にしながら、罠の材料等について確認する。

            罠を掛けるのは、おれは今期がはじめてだ。熊つぁんところで解体はだいぶ自信がついたので、今年から自分でも仕掛けていく。以前に見せてもらった時のことをよく覚えているから仕掛けること自体は問題ないと思うのだが、道具の確認、そのほか他の狩猟者への気遣いなどについて教わることがあった。罠猟においておれが心配している、狩猟犬が掛かってしまう可能性だ。銃猟は昼間だけに限られているから、毎日朝から夕刻までの時間は罠を取り外そうかとも考えていたが、「そんなことじゃモノ(獲物)がかからないよ」と熊つぁんに一笑されてしまう。鼻の利く獣たちから人の匂いを隠さなければならないのに、毎日人臭を付けに行くようなもの。考えてみればその通りだ。
            必要に応じては罠が作動しないような工夫と、地元の猟グループの人と連絡を密にとって事故のないように心掛けることだと教えられる。

            止どめ用の槍は出来た?と毘沙さんが訊く。まだなのだが、作る段取りについては構想が練ってあって、来月に入れば作り始められるだろう。最近なにかと忙しかったのだ。
            熊つぁんが猪にナイフで止どめを刺した時のことを、見ていた毘沙さんが語ってくれた。ナイフさばきが上手いのだろう、スッという一閃で静かに息をひきとったという。
            鶏の解体をおれに教えてくれた毘沙さんだが、屠るという行為には人一倍抵抗を持っている。猟に関心を持ちつつも、その抵抗ゆえに自分で行うつもりはいまのところ無いようだ。その毘沙さんが、安らかに逝ったように見えた、という熊つぁんの手際がしのばれる。


            その命に終わりをもたらそうと近づいて来る人間を見て、獣は激しくあらがう。血走った眼でにらむようにしながら、体当たりしても来る。そのちから強さと、なによりも生きることへのエネルギーは、かれの命を獲ることが真に必要なのかどうか、幾度とない問いかけをおれに生まれさせる。
            おれは獣たちが好きだ。木も草たちも。その命を得ることで自分が生きているということをほんとうの意味で理解し、それら沢山の命に見合った生き方をしてゆきたい。貰った命にとってもっとも善いために、なにが出来るのかと。

            澄みわたった星空、冷ややかで白い月光の映えるなか、鹿の声が大気を裂くように響く。
            ふと、昔習った鬼剣舞を踏みたくなっていた。
            鬼剣舞の「鬼」とは死者を指す。反閇(へんばい)という地鎮の法が踊り念仏と結びついたのは、ごく自然なことだったろう。

            生きるための主な糧となった鹿たちを祀る鹿舞い(ししまい)も、先祖を祀る鬼剣舞も、大地との繋がりをたしかめる、ネイティブの魂が宿っている。
            | 狩り | 22:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            蟹捕り洗濯機
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              梅雨ですね。
              というにはいまいち落ち着かない天気がつづいていますが、長雨のような雨続きだったりあるいは夏のような日差しと雷雨だったり。先日も急に降ってきたラムネのビー玉のごとき大きな雹に痛い思いをしながらも、自然現象の活発な表情を楽しく思う一日でした。

              こんな降水の多い日、晴天よりも元気に動くひとびともいます。木突つきもそうです。小雨のぱらつく朝や降りだしそうな曇天日なんかは、晴れの日よりも木突く音が谺(こだま)します。しめって響きのよくなった山谷の大気を、コッコッコッとリズミカルな音が染みていくのはこころ落ち着くものがあります。

              蟹も、雨天のほうが活発です。活動範囲が広がります。道路に出てきたり、 我が家のお勝手を大きな顔で歩き回ったり します。風呂場にも出ます。排水管が単純直結なので、本人の意思で出入り自由です。
              今季は洗濯機の中でも見かけるようになりました。

              これはちょっと、どうやって入って来たのかわかりません。入り方がわからないので、出て行くことが出来るかどうかもわかりません。
              なんにせよ、おかずにします。


              はさみの片方が大きいので、これは雄のようです。

              例によって冷凍庫のパックに入れました。

              数日後、こんどは脱水層に入っている蟹を見かけましたが、こちらはすでに息絶えていました。出て行くことが不可能なことがわかりました。
              死後どれくらいの時間が経ったのか不明なので、我が家のおかずにすることはあきらめます。沢べりまで運んでそっと置きました。小動物たちの糧となり、土に還るように。

              冷凍パックのなかの蟹の数はだいぶ増えました。そろそろ料理しようと思います。

              ※関連記事
              沢蟹料理など                (2007.07.19)
              | 狩り | 15:08 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
              収穫
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                丸太を運んでくるのにおよそ一日、今日の半日で四分の一ほどを割り終えた。後ろの丸太はまた後日、鋸で切ってから薪割り斧で割る。
                必要な道具は鋸と斧、そして生まれもった体。

                いい汗かいた〜。

                ※関連記事
                背負子の難   (2007.01.17)
                柴刈り ふたたび   (2006.12.24)
                柴刈り   (2006.04.29)
                | 狩り | 22:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                鹿の毛皮
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                  猟で獲れた鹿からは、肉も採れるが内臓・角・骨・毛皮も採れる。内臓は刺身やモツ煮にして美味しく食べられるし角は装飾品になる。骨や毛皮は昔はよく利用されたそうだが、今では捨てられる場合がほとんどだ。なので大口のまが鹿の解体を手伝った際に、骨や毛皮をもらってきてくれる。骨からは美味しいスープが取れるし、毛皮はうまく加工すれば素材として服・かばん・敷物などのあらゆる物を作ることができるからだ。


                  去年もらった毛皮は、内側に灰を塗って乾燥させて保存してある。これを使えるようにするには、なめしたりする作業がまだ必要だ。

                  イヌイットの家の中には、子ども部屋として全面アザラシの毛皮で覆った小さい部屋があり、中に居る人の体温だけで室温が20度以上に保たれる。アメリカインディアンのティピも、三角錐の狭い空間が焚き火で暖められて効率的だが、まこと先住民の知恵は無駄が無い。我が家も囲炉裏を使い柴だけで暖を取り調理できていることはありがたく思うが、家自体に隙間が多くまだまだ冷気を感じるので、鹿皮を敷いたり壁に掛けたりするなどの工夫をしていきたい。

                  しかし、そのような暮らしの工夫をする以前に、人間にも熊や鹿のような毛皮があればよいのに、とも思う。哺乳類の中で、ヒトのように柔らかい無防備な皮膚が露出していて頭部にだけ長い毛が生えている生きものは珍しいのでは?他の生きものから見ると、ヒトはなんとも奇妙な生きものに見えているのではないだろうか。

                  ヒトに似ている生きものに、ブタがいると思う。ブタは猪が家畜化し、毛が無くなり色も白くなってしまった。野菜も、もとは野生の植物がヒトの手により品種改良などされ「軟白肥大化」されたものだ。野菜もキャベツや白菜などは一番外側の葉は青々としてしっかりとしているが、畑からは内側の柔らかい部分だけが収穫されて店頭に並ぶ。ヒトは、野菜・穀物・家畜などの軟白肥大化されたものを常食しているので、当然ヒト自身も軟白肥大化してしまうわけである。生活習慣病も発生して当たり前だ。その上美容面では、さらなる「軟白化」が志向されている。食の面では、自然の中では当たり前の「有機」や、どんぐりだけを食べさせた「イベリコ豚」などが珍重されており、なんとも皮肉である。

                  野生の鹿や猪の肉は、色も味も濃い。野生の獣の味に慣れると、家畜の肉は味が薄く歯ごたえも無いので、なんとも物足りなく感じる。色も薄いので、見た目にもちょっと気味が悪い。物足りないのでついつい量を食べてしまうが、それでも満たされない。野菜も同じである。野菜は柔らかくクセも無いので量を食べてしまうが、野草は味もエネルギーも濃いので少しの量でも食事としては満たされてしまう。なるべく野生の動植物を食べるようにすれば、ヒトの身体も精神も今よりは健康になるのではないだろうか。

                  熊は洞窟や樹のウロなどで冬眠するが、あれだけ立派な毛皮があれば日当たりが良く風当たりの無い場所を選んで厳しい冬も越すことができるのだろう。そして晴れて穏やかな日には、時々外に出て日向ぼっこをしたり沢の水を飲んだりするのだろうか。寒さに震え半纏や厚手の靴下で身を固める冬には、穴の中でうつらうつらと過ごす熊に無性に憧れてしまうのである。
                  | 狩り | 14:44 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  柴刈り ふたたび
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                    以前に書いた記事「柴刈り」は、正確に言うと「薪集め」だった。今度は正真正銘柴刈り。
                    囲炉裏は家の中の焚き火、ぢかの熱と光とが部屋内をあたためるので、点ければすぐあたたまるし薪ほど強い火力にしなくても燃える。―――薪はある程度以上の温度を保たないと上手に燃えない・・・うちの自作暖炉のばあい。

                    そんなわけで薪運びではなく柴刈りに精を出し、山へ行く。背負子(しょいこ)は、木製の本体だけ二階で眠っていたものに見よう見まねで藁縄を巻きつけ背負い紐をつけた。普通見るものよりも丈が長く、柴狩り専用なのではないかとも思う。


                    背負子は「ウマ」ともここら地域では言う。何十年か前この村の子が作文で、「お父さんはウマをしょって山をおりてきます。お父さんが歩くたびにウマがギィーコ、ギィーコと鳴きます。」と書いて、派遣されてきた先生が吃驚したという話どおり、おれもギィーコギィーコの音とともに一歩一歩山をくだる。

                    秋のこがらしで木々の枝の枯れた部分は地に落ちる。乾燥した空気にさらされて軽くなった枝えだを拾い集めながら、やまの体の一部を貰っているなぁと思う。
                    春になれば暖かい嵐に落ちる枝。冬のあいだ、寒さに耐えるように余剰部分を枯らしておくことや、寿命を全うした幹が倒れて散らばるやまの大地。茸や虫たちがその体を食べる。おれたちも、その体で暖をとる。

                    今冬はどうも、チェーンソーを使わずに寒さを乗り切れそうだ。
                    暖炉を使っていたときにくらべると格段に少い労力と燃し木ですむ囲炉裏で問題なく冬を越せそうな今日この頃、山で見かけるたくさんの倒木は、暇をみて手ごろな丸太の大きさに切って家に運び、薪として寝かせておこう。少いとはいえ煙りが出る囲炉裏、なれていないお客さんには、暖炉にも火を入れてあたためられるように。


                    ※関連記事
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                    | 狩り | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    唐松の柴
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                      唐松林で柴を狩ってきた。本当は自分の使うものはできるだけ自分のまわりのもので生きたいのだが、うちの近くの山はなにぶん急斜面ばかりなので、平らなところでの柴拾いならば時間と労力を大幅に減らせるだろうとの誘惑に負けて、雑多な用事で忙しくて柴が足りなくなることを気にした折の大口のまであった。

                      軽バンに無造作に積んだ柴を、得した気分でほくほくと家の中に運び入れ早速燃やす。雑木と比べてヤニの多い唐松は火力があるぞーと、内心期待を込めつつ様子を見る。
                      うむ、火力はありそうだ。しかし、パチパチとはぜるその音は焚き火に似合ってすてきだけれど、火のともったままの皮が跳びかってなかなかにあぶない。大丈夫かなと思いつつ二・三日後、座布団が焦げ臭い匂いとともに、じわじわと炎を出さずに燃えていた。あわててスリッパで叩き消す。
                      唐松のこの特性は乾燥具合とも関係なく、燃やせばはぜることは避けられないだろうな、と、今日は自前の足で山へ柴狩りに行く大口のまである。
                      | 狩り | 17:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |