このムラ(部落)は二本の沢の合流点を中心にできあがっている。傾斜はきついが陽当たりのなかなかよい、近隣よりも古い生まれをもっている部落だと聞いた。
ムラが誕生するにあたって不可欠なのが「流れ」だ。日々の生活をささえる水に感謝し、水神を祀って、命のみなもととのつながりをかたちにもこころにもあらわす精神は、アイヌ、インディアン、そのほか地球上どこのひとびとも同じだった。
各家に、水道を配して沢水が通るようになったのは、いつの頃だったろう。ながいあいだ、水甕に溜める水を汲みに行く日課の暮らしが、変化したのは。自宅の台所にはじめて水が出るようになった時、家人はどんな気持ちでそれを見ただろうか。いきて流れる水が、家の中に来るようになったのだ !・・・ ムラの上流にあるいくつかの風化した水溜めの槽が、何度となく作り直された水確保のためのいとなみを伝えてくれる。
現在使っている浄化・貯水の槽は、三・四十年前に作られたという。その頃、炭やこんにゃくの需要が最も多かった時代を反映して、部落の人口も史上最多だったと思われる。二本の沢の水だけではまかなえなくなってか、数キロ離れているもっと水の多い沢から引水する水管が、部落の人々の手によって山の斜面に埋められ渡された。もともと部落で使っている二本の沢の水量が減っていることをうかがわせる地形もあり、また電気製品の利用にちなんで家庭排水が増加したことも一因だったかもしれない。
地面に埋められている水管は太く厚い塩ビ管で、つねに流れるよう注意深く進路を決めてあるので冬季でも凍ることはないが、ときどき何かの原因で水の出がわるくなることもある。おれが引越してきたばかりのとき、樹が根を伸ばして管をからめとり、ひしゃげられた水管が流れを滞らせていたこともあった。三十年の間には、樹々も立派に育つ。
今年、浄水に使われている槽いっぱいの石や砂利を部落の皆で洗った。前回の清掃から十年ほど経っているというわりには汚れがそれほどついてなく、沢の水の清浄さをあらためて知った。ありがたい、恵みだ。
清掃ののち日を改めて、埋めてある水管の点検に山へ行く。道みち話す内容は山で採れる茸のことだったり、鹿や猪の最近の様子だったりで、部落の人と行動するのは山で生きていくための実践の学び場だ。
だが・・・。
針葉樹の植林のなかを通っているとき、鹿に皮を食われた跡をいくつか見つける。外側の硬い皮は食べずに、内側の柔らかい部分だけを念入りに食べている。無数についている細かい歯の跡は、鹿たちの生きることへの必死さを伝えるようだ。
細い樹の皮を食べることはないのか、餌食となっているのはひとかかえもある大きな樹ばかりである。
地元の人たちの鹿や猪に対する感情は冷淡だ。畑や植林の加害者としか、彼らを認識していないからだ。
鹿の「被害」にあった植樹を囲んで、不満や憤りを語り合う同道者たちのわきで、おれは沈黙する。生き延びるために糧を捜し、木の皮を丹念にこそぎ食べる鹿たちの動きを脳裏に描く。雑念のない無垢な、しかし逞しいちからを秘めている黒い瞳を想い起こす。
野生のおきてを守ってつよく生きる彼らの姿を。
水源に来た。これから水道管に沿って部落までを、点検しながら歩いていく。
段取りを打ち合わせる会話の内容が、この日の作業を楽しからぬものとなることをおれに知らせた。
おれは知らなかった。今日の作業の中心が樹々の命を奪っていくことだということを。
今後また樹の成長によって水管がひしゃげ水の通りを邪魔することのないように、水管の近くに生えている樹を枯らすため皮を剥ぐ手順が確認されていく。
その樹たちがやがて必ず通水を邪魔するとわかっているわけではない。また、前回水の通りをわるくするほど管をひしゃげた樹は、からんでいる根を数本切ればそれでよかった。樹の命を断つ必要はなかった。
次また水の通りがわるくなったとしても、、場所を探して原因となっているところだけ手をかければいい。樹を死に至らしめることはない。
しかし部落の人にとって樹のいのちは、水道確保のため疑わしきを処するほどに軽いのだ。皮を食われた樹を見て鹿に不服を抱くのも、その樹が植樹だったときのみに限られていることからもそれがわかる。材木としての、人間の法に則った利用価値のある樹の場合のみの。
おれはおれの考えを部落の人に伝えることをしなかった。言ったところで理解できないとしか思えないからだ。そしておれがこの部落で暮らし難くなる結果を招くだろう。
それはおれの驕りだったのかも知れない。その理由で樹を死なすべきではないと、言った方がよかったのかも知れない。
だがおれは黙っていた。黙ったまま一緒に樹の皮を剥ぐ作業をしていたのは、ただ自分可愛さの保身でしかなかった。
半日をかけて、山を歩き、樹の皮を剥いだ。彼らが地中からちからを得ることができなくなって死ぬように。
樹は、おれをゆるすだろうか。樹々の母であるこの大地は。
木の所有者、山の所有者――地主には断りを入れてある。作業している部落の者が所有者本人の場合も少くない。
そして、この所有するという概念に、どうしても馴染むことがおれはできない。木や、山や、ものたちを、自分の物にするという感覚が、やりきれない。
おれはだれにも所有されたくない。なにものをも、所有したくない。その概念を受容することは、タシナ・ワンブリさん(コエン・エルカさん)に怒られる気がするのだ。おれの体を造っている、おれを生かしつづけている無数のいのちたちが、悲しむ気がするのだ。
『生の木、生きている木をワザワザ自分のため切るのは 余程生死に関わりがない限りとか儀式以外の為、さけた方がいい、と思います。生の木はそれなりの“おもい”=魂があるので、それなりの儀礼がかかる、使うには。』
部落を通る沢の水だけで生活をまかなえなくなったとしても、それはその地に住める人の量の限界を超えたからだろう。そして沢の水が昔と比べて減少したのは上流に植林を造ったからではないか。金銭目的で天然の樹々を皆伐し同種の木のみを人間の按配で植えた林は、生きものの極端に少い、水を保てない土地をうみだしてしまう。
皮を鹿に食われた植樹が目立つのは、病的に増えすぎた種(植樹)の数が減っていく大自然の当然の加減かもしれないのだ。
ゆるやかに変動する自然の按配に、野生の木々が育ち、野生の動物が行き交う。その一部におれはなりたい。
『然し、枯れた木や落ちた枝を使うのは感謝をもてば、やきものを作るのも暖をとるのもどこが悪いのか?』
『森で私、火をつくる時、狼たちとコヨーテたちと火の近くに来て暖をとるためですよ。』
『“野生”の強さは
【その時その場ですべてを使って生(性)一杯生きることです。】
【お互いに使い合う。】』
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