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山あいで狩猟採集生活を目指す野楽生(のらぶ)のあしあと

野楽生れば

子狐の足跡
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    ここは水気の多い山地、四月に雪が降ることもめずらしくない。暖かいのですぐに溶けるからとくに問題もなく、晴れた朝は屋根から落ちる雪解けの水音が目覚ましとなる。

    家の脇の沢に架けてある橋に、狐の足跡があった。


    狐の足跡は一直線に出来る。前足で踏んだと同じところを後ろ足で踏むため、左右のブレも少く、まっすぐな並びとなるのだ。


    この足跡はとてもちいさなものなので、たぶん子どもだろう。こんなに人家の近くまで狐が来るのを、今まで見たことはない。きっとまだ人間のことをよく知らない子狐が油断してきてしまったのだと思う。

    “堅雪かんこ 凍雪(しみゆき)しんこ
     狐の子ぁ 嫁ほしいほしい”

    賢治の童話「雪渡り」を思い出した。
    | いきもの | 22:21 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
    死して活きるいのち
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       雨が降っている。
       水気の多い時期になった。夏の夕立のように土砂降りのときもあるけれど、全体としては安定した水の量だと感じる。昨日は陽光が眩しくて、ひさしぶりの薪作りに精を出した。
       木の実 草の実も色づいている。桑の実、木苺、蛇苺。豊富な水で色鮮やかに膨らんでいる。

       うちの傍にあるぐみの樹にも、赤くなった実がちらほら見える。あお(緑)くて硬い実が黄色くなり、やがて艶やかな紅を呈すさまは、日差しが吸い込まれて育っていく時間を視覚化している。


       そして、樹の下にはたくさんの硬い実が落ちている。あおいもの黄色いもの、熟すことなく樹から離れ、土に帰るを待つものたちだ。


       ふたたび樹についている実を見る。ひとつひとつの実が、大きく成るために、一生懸命枝に結んでいる息が感じられる。


       ひとつのたねがうまれ芽吹くまでに、いくつのみどりごが土に帰るのだろう。
       草木の種、虫・魚・爬虫類や鳥の卵。
       一説によると人の子も、宿ったことに気づかれぬうちに消えていくものがあまたあるという。

       消えていき土と帰り、次にうまれてくるもののためのしるべとなる。たとえわずかな時でも、この世にあって縁を結び、次のものたちへとつながっていく。
       関係ないんだ、長い短いは。

       いにしへのやまとことばで “死”を、“かむあがる”。
       神へと上がるいのちの一歩として祀る。
       生きているいのちひとつは無数の死するいのちのつながり、神たちとのつながりでここにある。
       この世界にあらわれるかたちはみんな、見えないいのちを背にもって、一時いっときを過ごしていく。

       天(あめ)から来る光に宿り、地(つち)に帰するまでの、それぞれの時間。
       天と地のあいだでうづまいている一つひとつの命たち、光が流れながらとどまっている。


       あめが、しずかに降っている。
      | いきもの | 22:36 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      冬のいきもの
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        もうすっかり春のような陽気なので、冬は終わったものだと思う。2月になってからも雪は降ったけど、暖かいので一日で溶けてしまう。雪かきしなくて済んで、今年は楽だったなぁ。

        それでも、今朝は晴れると確信していたのに外を見れば雪化粧の一面だったのでびっくりしたりもする。天気図からいっても間違いなく晴れると思っていたのに、山のゆえか気候の境が微妙である。

        また雪上の足跡を撮った。小さい肉球がならんだこの足は、貂(てん)か、あるいは白鼻芯(はくびしん)か、よくわからない。


        雪でも動きまわっているいきものたち、そして動かずにじっとしているいきものたちもいる。たとえば薪にしようともってきた倒木のなかに潜んでいる蟻たち。枯れた木の中の隙間に群れでかたまって、じっと春を待つ。
        薪割りのとき、かれらの邪魔をしないようできるだけ気をつけているのだけれど、切ってしまった断面に見つけたり、



        割ってしまって露出させてしまったりもする。



        見つけたら切るのも割るのも中止して、春が来て暖かくなり彼らの活動が始まるまで、雪のかからないところに置いておく。邪魔をして、すみませんでした。

        山の景色を観ながら鋸で薪を切る。一手一手に工夫をしながら、身体の使い方をあれこれ試してより良い動きをさがす。夢中になると疲れにも気づかないほど面白いけれど、外から見れば地味な、動きの小さい作業だ。

        もくもくと切っていると、一羽の小鳥が舞い降りてきた。





        名前はわからない、冬だけ見かける渡り鳥だ。嘴の形からみて木の実を主に食べているのではないかと思う。
        かなりの長いときを、うちの庭で過ごしていった。
        | いきもの | 07:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        足跡 雪の上
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          この冬は暖かい。いまのところ降雪の回数も量も少くすんでいる。晴天が多くて、活動する上ではありがたい。

          それでも何度か雪が降った。ある朝外に出てみると家の前を兎の足跡が横切っている。以前にも見かけることがあったけど、こんなに家の近くも走っているとは思わなかった。




          家から離れたところではさらにいろいろな足跡を見る。小さいものは貂(てん、テンマル)だろう。少し大きいのは狸か、ひょっとしたら穴熊だろうか。狐はきれいに一列に並んだ点の後を残すという。まだ見たことはない。
          山の尾根近くは大きな松やもみの樹が多く、その根元には小さくて細かい足跡を見る。とても軽い跡なので、栗鼠や山鼠だと思う。

          まだまだ判別がつかないものがたくさんだけれど、雪の日にはいきものたちの動きの跡を感じられて嬉しい。
          | いきもの | 15:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          雀蜂
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            漢字で書くと可愛い感じがする。
            スズメバチ。
            片仮名で書くとちょっと恐いかな。つり上がった眼を思い起こして。
            色と大きさと存在感が、雀ほど、ということで付けられた名前だと思う。じっさい飛行中の彼らは静止しているときよりもさらに大きく見える。
            ここいらへんの地元言葉では「クマンバチ」という。熊のような、虫とは思えないようなうなり(羽音)と強さ、その存在感をみとめられて付けられた名だろう。熊ン蜂、あるいは隈ン蜂。“隈”は薄暗くておっかないような場所やちから、ひとの領域外へのおそれをあらわしている言葉だったとおれは考えている。東京では他種の黒い蜂を指していた(少くともおれの子供の頃はそう呼んでいた)。

            春先から夏にかけてとくに午前中、家の前の日当たりのよいところをゆっくりと飛んでいるのを見かける。縁側沿いの材の木が、巣をつくるのに適当か、あるいは巣の材料となりそうか観察しているようだ。 たまには窓をくぐって天井付近を飛行していることもある。室内に入ってくるとその羽音のつよさを際立って感じる。強い生物、という感じがして緊張するのは否めない。
            けれども、外に出てほしいときは丁寧に誘導してやればなにも問題はない。かれの飛行にあわせて、ゆっくりと手をうごかして外への出口へむかってさそいかける。外はあっちですよ、と話しかけてもいい。家の中にいてもかれにとっては得るものがないのだから。

            建て物の近くを探るように飛んでいるのは軒の下に巣をつくる雀蜂で、大雀蜂ではない。大雀蜂、この最大の蜂は土中に巣を構える。それゆえに見かけることは少く、また樹々のゆたかな自然の土地でないと生息できない。やまを歩いている時ぶーんと存在感のあるうなりとともに一直線に飛んでいくのを見ることもあるが、そんなときは用を終えて巣へ向かうところなのだろうか。家のまわりで見かけるのは圧倒的に朝が多く、草や花のある場所をゆっくりめに低空飛行している。ひと針で人を死に至らしめることもできるその強さは恐ろしいけれど、かっこいい、美しいその姿は見ていてうれしい。


            蜂もそうだけど蟻も、完全に決められた役割分担による個体差別が、機械的な整合性を感じさせて、自分が彼だったら嫌だな、とマイナスのイメージが強かった。けれども、インディアンの部族のなかには蟻や蜂の生き方は宇宙を表している、と伝えていると聞き、それまで彼らに抱いていた印象を拭い払うほどの、眼からうろこの落ちる感動を味わった覚えがある。

            「蟻や蜂は宇宙を表している」 !

            あなたなら、このことばからどんなイメージをもらいますか?

            | いきもの | 20:23 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
            春うらら
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              あたたかくなってきた。
              今年も気温の低い冷え込む冬で、仕事のあいまを縫って薪を集めながらできるだけ節約する燃し方を努めたりのキビシイ冬だったけれど、それでもやまに足を向ければ枯れ倒れた樹々がつねに手に入る、ふところふかい山中ゆえに逼迫せずに越冬できた。
              ・・・次冬こそはしっかりと薪を蓄えとこう。・・・

              ともあれ、あたたかくなってきた。
              あたたかいと身体にも気持ちにも余裕がでてくる。(仕事もひと段落したし)
              啓蟄を過ぎて虫も見かけ、小鳥たちもにぎやかにさえずるようになって来た。

              ことしの冬は、罠を見回りにしょっちゅうやまに入ったけれど、冬の間の鹿の足跡はとんと見ることがなかった。猟期になるとけものたちは山の奥へと移動して、人里に降りては来なくなると聞いていはしたけれど、雪の大地に足跡をひとつも見ないとなると、ちょっと心配になる。鹿たちははたして、またあらわれるだろうか・・・。
              白銀の雪の上に、栗鼠や貂やと思われるちいさな動物たちの行動を見、さむいなかですごいなぁと畏敬の念を抱きながら、そのおなじ大地を自分も歩いていることがたまらなく嬉しい。
              いつまでも、かれらたくさんの生きものたちが、隣人として居てくれてほしいものだ。

              西の月がまだ細い姿の頃、夜の帰り道で子鹿たちに逢った。何頭も一緒にゆっくりと歩いていて、まだ自動車を見慣れない様子はこの冬生まれの鹿たちに間違いない。

              この春も、またあらわれてくれたのだな・・・。
              今年も、また春が来た。
              | いきもの | 23:51 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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                帰りが遅くなって夜の道を走っているときは、昼間は姿を見せない生きものたちが現れないか、わくわくしながら運転している。穴熊、白鼻芯(はくびしん)、蝙蝠(こうもり)、貂(てん・てんまる)。
                先日は梟を見た。

                夏が始まるころになると必ず鳴き声が聞こえてくるのだけれど、姿を見ることはなかなか無い。
                この日は電線にとまっているのを見つけて車を止めても逃げることなく、写真をとることができた。



                こちらにはとうぜん気づいているのだが、さして気にしてもいない風で、余裕たっぷりくつろいでいるようである。


                撮影できる機会が稀なものだから、いい写真を撮りたくて何度もシャッターを押し、その度ごとに閃くフラッシュの眩しさに耐えられなくなって大きな羽を広げて移動する。少し離れた他の電線にとまりまた周囲を窺うけれど、おれはしつこくカメラをもって近づいてまたも閃光を浴びせかける。

                ついに嫌になってか、木々の翳の暗闇へ飛び去っていった。

                食べ物を捜していたのかも知れないところを大いに邪魔をして、悪いことをしてしまった。
                野生動物を見ると嬉しくなってついつい追いかけてしまう、対象者のかれらにしてみれば迷惑至極なのだろうと気づくのはいつも逃げ去ってから。申し訳ない。こんな五月蝿いことをしているから、人間を一目見るなり逃げ出すものたちが増えちゃうのだろうなぁ。


                梟はアイヌのひとびとが コタン・コロ・カムイ と呼んでいる。村の神、村を見守るものとして敬っていたようだ。
                ギリシャでも知識の象徴としていたそうだし、梟になにか視透すちからを感じていたのはどこの民族も同じだったのかも知れない。
                高校で生物を教えてくれたゲッチョという名の教師が話していたことを思い出す。いわく、梟が地面を歩いていると、二本の足でひょこひょこ進んでいる姿が小人と間違える。

                埼玉県の山の町、秩父盆地の中心の秩父神社は、知々夫彦命(ちちぶひこのみこと)と共に八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)を祀っている珍しい神社だ。彼の神は知識豊富な智恵の持ち主として有名なのだが、関連あるのかないのかよくわからないけれど、この神社では社の北面に梟の彫像を据えて祀っているのだ。それも、うさぎのような耳を頭上にはやした、不思議な姿の梟。
                チチブという古くからの血を伝えている土地に祀られている、ネイティブの魂を伝える神なのかもしれないと、ひそかに崇拝している。



                | いきもの | 20:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                水と木と、それを喰らうものたち
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                  このムラ(部落)は二本の沢の合流点を中心にできあがっている。傾斜はきついが陽当たりのなかなかよい、近隣よりも古い生まれをもっている部落だと聞いた。
                  ムラが誕生するにあたって不可欠なのが「流れ」だ。日々の生活をささえる水に感謝し、水神を祀って、命のみなもととのつながりをかたちにもこころにもあらわす精神は、アイヌ、インディアン、そのほか地球上どこのひとびとも同じだった。

                  各家に、水道を配して沢水が通るようになったのは、いつの頃だったろう。ながいあいだ、水甕に溜める水を汲みに行く日課の暮らしが、変化したのは。自宅の台所にはじめて水が出るようになった時、家人はどんな気持ちでそれを見ただろうか。いきて流れる水が、家の中に来るようになったのだ !・・・ ムラの上流にあるいくつかの風化した水溜めの槽が、何度となく作り直された水確保のためのいとなみを伝えてくれる。

                  現在使っている浄化・貯水の槽は、三・四十年前に作られたという。その頃、炭やこんにゃくの需要が最も多かった時代を反映して、部落の人口も史上最多だったと思われる。二本の沢の水だけではまかなえなくなってか、数キロ離れているもっと水の多い沢から引水する水管が、部落の人々の手によって山の斜面に埋められ渡された。もともと部落で使っている二本の沢の水量が減っていることをうかがわせる地形もあり、また電気製品の利用にちなんで家庭排水が増加したことも一因だったかもしれない。

                  地面に埋められている水管は太く厚い塩ビ管で、つねに流れるよう注意深く進路を決めてあるので冬季でも凍ることはないが、ときどき何かの原因で水の出がわるくなることもある。おれが引越してきたばかりのとき、樹が根を伸ばして管をからめとり、ひしゃげられた水管が流れを滞らせていたこともあった。三十年の間には、樹々も立派に育つ。

                  今年、浄水に使われている槽いっぱいの石や砂利を部落の皆で洗った。前回の清掃から十年ほど経っているというわりには汚れがそれほどついてなく、沢の水の清浄さをあらためて知った。ありがたい、恵みだ。
                  清掃ののち日を改めて、埋めてある水管の点検に山へ行く。道みち話す内容は山で採れる茸のことだったり、鹿や猪の最近の様子だったりで、部落の人と行動するのは山で生きていくための実践の学び場だ。
                  だが・・・。

                  針葉樹の植林のなかを通っているとき、鹿に皮を食われた跡をいくつか見つける。外側の硬い皮は食べずに、内側の柔らかい部分だけを念入りに食べている。無数についている細かい歯の跡は、鹿たちの生きることへの必死さを伝えるようだ。


                  細い樹の皮を食べることはないのか、餌食となっているのはひとかかえもある大きな樹ばかりである。

                  地元の人たちの鹿や猪に対する感情は冷淡だ。畑や植林の加害者としか、彼らを認識していないからだ。
                  鹿の「被害」にあった植樹を囲んで、不満や憤りを語り合う同道者たちのわきで、おれは沈黙する。生き延びるために糧を捜し、木の皮を丹念にこそぎ食べる鹿たちの動きを脳裏に描く。雑念のない無垢な、しかし逞しいちからを秘めている黒い瞳を想い起こす。
                  野生のおきてを守ってつよく生きる彼らの姿を。


                  水源に来た。これから水道管に沿って部落までを、点検しながら歩いていく。
                  段取りを打ち合わせる会話の内容が、この日の作業を楽しからぬものとなることをおれに知らせた。
                  おれは知らなかった。今日の作業の中心が樹々の命を奪っていくことだということを。
                  今後また樹の成長によって水管がひしゃげ水の通りを邪魔することのないように、水管の近くに生えている樹を枯らすため皮を剥ぐ手順が確認されていく。
                  その樹たちがやがて必ず通水を邪魔するとわかっているわけではない。また、前回水の通りをわるくするほど管をひしゃげた樹は、からんでいる根を数本切ればそれでよかった。樹の命を断つ必要はなかった。
                  次また水の通りがわるくなったとしても、、場所を探して原因となっているところだけ手をかければいい。樹を死に至らしめることはない。

                  しかし部落の人にとって樹のいのちは、水道確保のため疑わしきを処するほどに軽いのだ。皮を食われた樹を見て鹿に不服を抱くのも、その樹が植樹だったときのみに限られていることからもそれがわかる。材木としての、人間の法に則った利用価値のある樹の場合のみの。

                  おれはおれの考えを部落の人に伝えることをしなかった。言ったところで理解できないとしか思えないからだ。そしておれがこの部落で暮らし難くなる結果を招くだろう。
                  それはおれの驕りだったのかも知れない。その理由で樹を死なすべきではないと、言った方がよかったのかも知れない。
                  だがおれは黙っていた。黙ったまま一緒に樹の皮を剥ぐ作業をしていたのは、ただ自分可愛さの保身でしかなかった。

                  半日をかけて、山を歩き、樹の皮を剥いだ。彼らが地中からちからを得ることができなくなって死ぬように。


                  樹は、おれをゆるすだろうか。樹々の母であるこの大地は。


                  木の所有者、山の所有者――地主には断りを入れてある。作業している部落の者が所有者本人の場合も少くない。

                  そして、この所有するという概念に、どうしても馴染むことがおれはできない。木や、山や、ものたちを、自分の物にするという感覚が、やりきれない。

                  おれはだれにも所有されたくない。なにものをも、所有したくない。その概念を受容することは、タシナ・ワンブリさん(コエン・エルカさん)に怒られる気がするのだ。おれの体を造っている、おれを生かしつづけている無数のいのちたちが、悲しむ気がするのだ。




                  『生の木、生きている木をワザワザ自分のため切るのは  余程生死に関わりがない限りとか儀式以外の為、さけた方がいい、と思います。生の木はそれなりの“おもい”=魂があるので、それなりの儀礼がかかる、使うには。』

                  部落を通る沢の水だけで生活をまかなえなくなったとしても、それはその地に住める人の量の限界を超えたからだろう。そして沢の水が昔と比べて減少したのは上流に植林を造ったからではないか。金銭目的で天然の樹々を皆伐し同種の木のみを人間の按配で植えた林は、生きものの極端に少い、水を保てない土地をうみだしてしまう。
                  皮を鹿に食われた植樹が目立つのは、病的に増えすぎた種(植樹)の数が減っていく大自然の当然の加減かもしれないのだ。

                  ゆるやかに変動する自然の按配に、野生の木々が育ち、野生の動物が行き交う。その一部におれはなりたい。

                  『然し、枯れた木や落ちた枝を使うのは感謝をもてば、やきものを作るのも暖をとるのもどこが悪いのか?』
                  『森で私、火をつくる時、狼たちとコヨーテたちと火の近くに来て暖をとるためですよ。』
                  『“野生”の強さは
                  【その時その場ですべてを使って生(性)一杯生きることです。】
                  【お互いに使い合う。】』
                  ・・・・・・
                  | いきもの | 23:08 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
                  蜂の分家
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                    よく晴れた気持ちのいい春の一日。毎年この時期には蜂が分家する。今年もその現場に立ち会うことができた。

                    近所の山小師(ヤマオジ)は蜂箱をいくつももっていて、畑や山の斜面などに設置している。雨風に晒されにくい場所を選んで、じっさいこの山村ではあちらこちらに沢山の蜂箱が置いてある。
                    今年も山小師が、空いている蜂箱を念入りに掃除しているのを見た。一つの箱にはすでに蜂の一家が居ついているが、他の箱にも移ってもらいたくて毎年手入れをおこたらない。昨年も、その前年も、蜂が飛びながら、いまだ他の持ち箱には入っていないようだ。

                    新しい女王蜂とその一群は、この時期のすがすがしい晴れた日を選んで一斉に飛び発ち、生家を出る。五月の色濃い日光に照らされた黄色い蜂たちがうなりを揚げて飛び交っているのは、ちょっとした見ものだ。




                    うなる蜂群は、しばらくした後ゆっくりとそのかたまりのまま移動して沢の方へ行ったが、山小師の設置してある空いた蜂箱には入らなかったようだ。

                    山小師や熊つぁんに聞いた話。
                    数十年前までは、蜂蜜を採って山々を渡り歩いているひとびとがいたそうだ。花が咲く時期は地域によって少しずつ異なる。だから巣箱に蜂蜜が溜まる時期も、季節のうつろいにあわせて山から山へ、その流れを追って各地で蜂蜜採りをしながらそれを売ってなりわいにしているひと達がいた。

                    しかし、山々の樹々が人の手によって大量に伐られ、自然の循環のリズムがくずされていくなかで花、蜂、そしてそれらに繋がるものたちのバランスはゆらいでいった。大地の恵みの花の蜜、それを享受した蜂蜜というめぐみは、今はわずかしかなくなった。蜂蜜採りの渡りのひとびとは消えた。

                    欧州の縄文人・ケルトの血を濃くひくC・W・ニコル氏の一文を思い出す。
                    「樹齢200年の栃の樹一本で、1シーズン平均して時価にして卸値で3万円から4万円の蜂蜜が生産できる。ところがその同じ木を切り倒し、パルプに加工したとしたら、せいぜい1万円にもならないばかりか、それっきりで終わりである。ずいぶんと非効果的な話ではないか。」(1989年 『TREE』より。文中「トチノキ」を「栃の樹」と書き換えました――大口)

                    人間の利用の面だけで見てもこんな具合。金銭換算の数字にすると見え易いのかもしれないが、ほんとうには、蜂蜜に繋がる種々様々の恩恵の数かずが、一本の樹の伐採でこの大地から消える。

                    こんなことがずいぶんと繰り返されている。山も、川も、湖も、草原も、海も。
                    自分たちのことを考えて資源、資源と駆けずり回り、それを確保とダムを作り、地を掘り、次々と機械を発案しても、大地のバランスには遠くおよばない。何億年と生き抜いてきた、大地の掟(法則)には。







                    記事に書こうとそんなことを考えつつ薪を割っている翌日、いっぴきの蜜蜂がまとわりついて、肩や腕やらにとまって
                    はなれない。一息入れて、斧振る手にカメラを持ち替え、小さな撮影会をおこなった。
                    | いきもの | 06:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    春のけものたち
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                      三寒四温でまだまだ冷え込む日もあって、今日などはかるく雪が舞ったりしているけれど、ここらの気候としては四月の始めの降雪も珍しくないこと、全体としては確実に暖かくなってきている。地面から草が顔を出し、虫が飛び交い鶯も鳴き、鹿の声も頻繁に聞こえるようになった。
                      春は、生まれて間もない生きものたちの初々しいエネルギーが感じられて、なんだか楽しい。冬のあいだにためておいたちからを開放、花開かせていて、みづみづしく大気にとけてのぼっていくようだ。

                      ある昼間、近所のひとが向かいの斜面を見ながらなにか声をかけてきた。かもしかだ。部落内で飼われている犬が追い込んでしまったそうで、コンクリーを吹き付けた急傾斜のてっぺんで退路を断たれ、立ち往生している。適当に離れて吠えているくだんの犬は猟用ではなく、遊びのつもりなのだろうから、しばらくすれば関心をなくして去っていくだろう。
                      野次馬根性でかもしかどのに申し訳ないが、近くまで行って写真を撮った。あまり近づきすぎて脅かして、恐慌のあげく斜面を落ちて怪我をしたりしては悪いから、距離を気をつけながら撮影する。


                      少しばかり小柄な気がする。まだ若いやつだろうか。角はしっかりと生えているが、かもしかの角は生後どれくらいで生えるのか知らないので年の推測が出来ない。でも一匹の犬に追い込まれて逃げ場を失ってしまうなんて経験豊富な個体にはないような気がするから、たぶんさほどの年ではないのだろう。
                      二時間ほどして見てみると、犬も吠えていずかもしかの姿も見えず、無事に自由をとりもどしたようだ。


                      春は若くて幼い季節、車の恐さを知らないけものが道ばたでのんびりしていることも多く、夕方や夜の運転はそんなかれらに出くわさないか楽しみでもある。案の定、日暮れの帰路に子鹿が二頭やってきた。
                      ヘッドライトは上げたままで車を止めて、好奇心旺盛な顔を近づけてくるのを待ちかまえる。



                      車のにおいを嗅ぎ、不思議そうに車内を覗き込み、なんだコイツは、なにやらわからんといった体でトコトコと山林に戻っていく。

                      車なしで歩いていたら、もっとちかいふれあいが出来るのかなぁ。それとも人間だってことがバレバレで、かえって近寄ってくれないか。
                      かれらと同じように自分のあしで大地を歩きながら、顔見知りになってゆきたいと思うのである。
                      | いきもの | 20:25 | comments(4) | trackbacks(1) | - | - |