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山あいで狩猟採集生活を目指す野楽生(のらぶ)のあしあと

野楽生れば

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続、鹿解体・後編
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    吊るした鹿の皮を剥いでから、各部位ごとに肉を分けていく。(皮の剥ぎ方については「鹿解体」「ナイフの柄のかたち マキリのマはマタギのマ?」に書いた。)肩(前足)と後ろ足を付け根から分け取った後、吊っている紐をはずして台に寝かせ頭部を取る。腹・肋骨の上の薄い筋肉(バラ)を取ってから、背骨にくっついている外ロースと内ロース(ヒレ)を取る。それから肋骨を背骨からはずし、一本となっている体幹の骨を骨盤・背骨・頸骨へと分けていく。

    前足の付け根、肩甲骨を胴体からはがす。




    ナイフの使いどころは筋肉・骨の間にある膜や軟骨で、肉を切る必要はあまりない。肩甲骨や大腿骨に直かについている筋肉をはがすときも“切る”わけではない。
    関節部の筋(すじ)は切る。筋(すじ)さえ切れば四肢は小さく分かれていく。

    死後硬直が解けた後で解体をするとこの作業がたいへんに楽なことがわかった。筋肉と筋肉のわかれめが見つけやすく、手を差し入れるだけで膜が裂け分かれ、刃で切る必要がないことも多い。筋(すじ)もとり分けやすい。また骨にへばりついている筋肉も、シールをはがすようにきれいに剥けていく。
    肉は熟成したように柔らかな重量感をもって旨そうだ。刃を使って切り分けるときは肉を傷つけてしまうことがあるのだが、硬直が解けた後は肉汁がほとんど出ない。そもそも分けやすいので傷をつけることが少くなる。

    初めて解体をした時分は力にまかせていたため、ナイフの先を曲げてしまったことすらある。数を重ねるたびに鹿の体のことを覚えていき、どこをどうすれば分かれていくのか、わかるようになってきた。作業の途中に刃を研ぎ直すことも少くなった。
    荘子の著にある「庖丁解牛」という文を思い出す。
    「庖丁」とは日本語の包丁の語源となった語で、「庖」は料理人・調理職人のこと、「丁」は名字、または某(なにがし)というほどの意味で、ここでの「庖丁」とは一人の料理職人を指している。

    『庖丁解牛』

     庖丁が文恵君の為に牛の解体を行った。手で触れ、肩を掛け、足を踏み、膝をつけ、刀の遅く速く動くにあわせて発する音は奏でる旋律としか思われず、あたかも舞踏の伴奏さながらに鳴り響いた。
     文恵君が讃えて言うに、
    「見事なもの。技も極まるとこのようなものか ! 」
     庖丁は刀を置いて返答する、
    「私の求めておりますのはものごとの理(ことわり)です。それは単なる技とは一線を画すものです。初心の頃、私の目を占めるのは牛の全体像のみでした。しかし三年の後、牛の全体は私の見るところではなくなります。今に至っては心によってとらえるのみで、目には映らずとも思いのままに行うことがかないます。自然の与えたもうた肉体の組織にしたがい、筋骨の隙をつき、刃は切るべき箇所へと導かれ、行くべき所へと走ります。筋が入り組んだところ、硬き骨の結合もものともしません。
     腕の良い者でも一年経てば刀を取替え、一般の者は月ごとに刀を駄目にするものです。しかし今、私の刀は十九年の歳月を使い通し、解体した牛は千を数えますが、刃の鋭さは研ぎおろしたばかりと同様に冴えています。筋骨には必ず隙間があり、刃は厚みをもたぬものです。厚みのないものを隙間に刺し入れるのは広々としたところを自在に遊ばせるようなもの、かようであれば十九年といえども刃は新しいままでありましょう。
     そうは言いましても、筋腱節骨を前にする度に、私はその難易を見極め、慎重に事に対します。眼は確かに対象を捉え、あせることなくゆっくりと、刀の動きは繊細軽微をもってします。“フッ”と音を起てて解体が終わるその瞬間、それぞれの肉塊は土のように積み上がって私の眼前に存在します。私は刀を手に提げたまま、作業のすべてを顧み、心残しのないことをたしかめて、はじめて刀を拭い鞘に収めるのです。」
     文恵君は言う、
    「すばらしい ! 余は庖丁の語るを聞いて、養生の道を得た」
             訳:大口のま
          参考書籍:貴州人民出版社「荘子全訳」(中国語)


    技は術につづいている。術は道へと近づいていく。

    そして、動物の体を解体することは、身体について学んでいくことでもある。どの部分の筋肉がどこの骨と繋がっていて、どんな動きを可能にしているのか理解できる。体内にある筋肉(肋骨の中にある内ロース等)が、体の軸を支える重要な役割を果たしていることも、見て感じることができる。
    また、罠で捕らえた獲物は逃げようとして怪我をしていることがある。打撲部分の皮下は黄色い膜が膨(ふく)れ筋肉を覆っている。腫れているというのはこういうことか。さらにひどい打ち身で内出血している筋肉は痛々しい。膜の膨れと違って、こちらは完治するのにずいぶん時間がかかりそうだ。関節に近いところで筋肉膜にくっついて、豆のような塊をみつけることもある。傷を直すためのリンパ球だろうか。

    解体は、食料だけでなく様々なものを与えてくれる。おれが経験したのはまだ数回だけれど、解体を知る前と後では身体に対する知識―――実感が違う。自分や他人の体を考える時、以前にはなかった豊富なイメージが持てるのだ。
    縄文時代のひとびとや狩猟採集の民、生きるための作業を自分たちでおこなっていた、分業をしないひとびとは、たとえば解体を通じてもさまざまな智恵をわかちあっていたのだろう。
    縄文人の身体知識は、現代人とは比べものにならないくらい実感をもって、実際に役立つ、自分自身と一体となった智恵だったのだ。


    四肢をばらして背骨を分けた頃にはへとへとに疲れている。冷蔵庫に納まるようにしたことでその日の作業は終える。翌日以後できるだけ早いうちに、頭部の皮を剥いで頬肉を切り取り、上下の顎をつないでいる筋(すじ)を切って関節をはずし舌(タン)を取る。最後に竹の棒の先をスプーン状につくった道具で脳を掻き出す。皮鞣し用だ。
    四肢はさらに関節(人間でいえば膝・肘)をはずし、束になって付いている大腿筋やふくらはぎの筋肉をばらして一つひとつの状態に分けていく。


    肉を取ったあとの骨は大鍋に入れて囲炉裏で煮込む。これで何日もスープがとれる。骨髄が溶け出したスープは濃く、味はしつこくなくて、栄養たっぷりだ。
    頭骨も煮る。取り外せなかった肉や軟骨も煮出していくうちにはがれていき、うちの家族のお腹に納まり、そして血肉となっている。



    生きている姿を見、殺し、食料として目の前にあるもの。食べるときに感慨のないはずがない。口のなかの味と食感に、生きている鹿の姿が強く感じられる。
    鹿を狩って食べる、その経験は他のものを食べるときにも影響した。パンを食べても小麦の姿が思い浮かぶのだ。風を受けてそよぎながら育っている小麦の姿。
    しかし、そのイメージはいつでもやってくるわけではない。あわただしく時計を気にしているうちに摂る食事には、そんなことを感じるべくもない。まずはひとつひとつの食事にゆとりをもって、鹿の姿、地に根ざして生えている草たちの姿を思いえがいてゆきたいと思う。
    鹿たちもまた、草たちを食べて生きてきた。


    煮出し終わった骨は、またいろいろなことを教えてくれる。そして様々な道具と成る道を秘めている。
    けれどもそれを書くのには、また別の機会を設けようと思う。

    ※関連記事
    鹿バラ肉角煮   (2008.12.21)
    罠という狩り   (2008.10.14)
    槍の柄作り〜野生の狩人をめざして   (2007.11.16)
    猟期前   (2007.10.25)
    | 狩り | 21:26 | comments(6) | trackbacks(0) | - | - |
    コメント
    大口のま 様
    ご無沙汰しております。t260arimaです。
    ちょっと忙しくて、ここのところ貴兄のブログを見ていませんでした。
    今回と前回の記事は、ちょうど私が11月9日にエゾシカの解体を手伝った(真似事ですが)こともあり、具体的なイメージで読むことができました。
    たいへん参考になることが多く、特に貴兄が命の偉大さ・大切さを実践していることに共感を覚えます。
    今後とも拝読させていただきます。
    | t260arima | 2008/11/17 11:00 PM |

    arimaさんこんにちは。
    おれも貴ブログの拝読、いつも楽しみにしています。
    浦川さんの狩りへの同行情景、拝見できて幸いです。手に取るように感じられるそのままの報告記で、学びとなるものがたくさんあります。ありがとうございます。来春放送予定のマキリの製作紹介も楽しみです。

    あざやかだった紅葉もだいぶ落ちて、寒気の厳しい山の冬が音連れてきました。身の引き締まる思いで冬に備えています。引き締まった体を囲炉裏の炎でゆるめ、翌朝冷風のなかでまた引き締め、寒さに適応する。締まりきっていては次の締まりができないので、ゆるむことが大切、と、最近通っている整体講座で教わったりしました。生きものの体ってよくできているものです。

    乾いた寒風のやまで、鹿をはじめ生きものたちの気配は感じにくくなっています。かれらはどんなふうに身を引き締めゆるめ、冬を越していくのだろうなぁと、薪を集めながら思ったりしています。
    | 大口のま | 2008/11/22 7:51 PM |

    はじめて書き込みます。

    突然ですが、お久しぶりです。以前中国で一緒だったスニェーガです「スニェーガ」といっても、ピンと来ないかもしれませんが。
    ツンソン女史より陶芸の修行をされているとお聞きしましたが、まさかこんなに立派な活動をされているとは・・・。似合い過ぎてますね。
    今、読んでいる本にそちらの山村が出てきて、大兄を思い出してここにたどり着きました。

    また伺います。
    | スニェーガ | 2008/12/10 11:04 PM |

    スニェーガさん、書き込みありがとうございます。

    お久しぶりです! といってもごめんなさい、正体に確信が持てずにいる大口のまです。たぶんこのひとかな、とは思っているのですが。「スニェーガ」という名が当時の呼び名と関連あるかしら?

    活動というほどのものではありませんが似合っているという自覚はあります。中国にいるときからこんな雰囲気が漂っていたのでしょうね。中国人に「山岳地帯の少数民族かとおもった」と言われるだけはあるというか。
    ツンソン女史とも久しく連絡とっていませんが、お元気でおられるでしょうか。

    どんな書を読んでいるのか興味ありますが(ひょっとしてジャコウネコさんの本?)、よろしかったら機会をつくって遊びにいらしてください。
    のんびりペースのブログですが、気長に続けていこうと思っています。またご来訪ください。陶器作りの方もホームページがありまして、左上の「書いているひと ●大口のま」のページからリンク貼っています。こちらも最近なかなか更新できていませんが、ご覧ください。

    ※コメント文に固有名詞が使われていましたので、ブログ管理上の都合から改変いたしました。ご了承ください。
    | 大口のま | 2008/12/10 11:23 PM |

    固有名詞(ツンソン女史の件)、うっかりしてました。失礼しました。
    その実、ツンソン女史とは長い長い間連絡を取っていません。連絡が取れなかった、といったほうがいいのですが。

    小生が読んでいる本は『日本人はなぜキツネにだまされなくなったか』という、内山節さんが書かれた本で、1970年代からそちらの村に住んでいるとのことでした。

    実は昨年、ドライブでそちらの近くまで行きましたが、時間の都合やら、突然訪ねてびっくりさせるのもなんなので、そちらの村までは寄り道しませんでした。

    小生はしばらく南東北というか北関東というか、まあそのあたりをさすらっておりましたが、現在は伊予の国に流れ着きました。今年からこちらに潜伏しております。ここはすごいです。当たり前ですが、関東、東北とは違う文化があります。あまりにおもしろいので、毎週のごとく出歩いております。

    ではまた。そのうち書き込みます。
    | スニェーガ | 2008/12/11 8:42 PM |

    すみません、基本的にこのブログでは個人名を出さないようにしているのです。でも内山節さんのように本を出している人はかまわないかな。

    やはり内山さん(ジャコウネズミさん=哲学者。昨日のコメントでは「ジャコウネコ」と間違えて書いてしまいました。)の書いた本でしたか。なんとなくそう思っていました。
    その本、おれも持っています。内山さんが中心になっている会がありまして、その会のメンバーは出版記念に一冊頂いたのです。内山さんの思考は目のつけ処が面白いですよね。ネイティブの目を持った人だと思っています。

    それはともかく、お近くまで来ていたのなら是非お会いしたかったです。今は伊予の国ですか、暖かそうですね。四国、特に太平洋側は弓の島 (日本列島)の古い文化が遺っている地域の一つですから、いずれじっくり訪れてみたいと思っています。羨ましいなぁ。

    またいろいろとご報告期待しています。そして機会をつくれたらお訪ねしますから、案内してくださいね。
    今後ともよろしくお願いいたします。
    | 大口のま | 2008/12/11 8:55 PM |

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