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山あいで狩猟採集生活を目指す野楽生(のらぶ)のあしあと

野楽生れば

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柴刈り
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    鉈と鋸を腰に、山へ柴刈りに行く。柴とはたきぎ、薪のこと。
    いままでチェーンソーを使っていたが、熟練すれば鋸でもそんなに大変ではないのではないか、と最近は剪定用の鋸を使っている。エンジンの五月蝿い轟音を山に響かせるのは嫌だし、手に伝わる機械の震動も身体によくない。そして何より石油燃料を使いたくない。

    枯れて倒れている十メーターほどの木を狙う。もう、倒れて三、四年は経っていよう。


    じつは鋸を使うことには苦手意識があった。すぐ疲れてしまうし、なかなか切り終わらないので短気なおれは飽きてしまうのだ。しかし、体の使い方を訓練するという意識で挑むと、腕だけという偏った疲れはないし飽きることがない。なるべく腕の力を使わず、丹田(臍下一寸。身体の中心となる、気のみなもと)を軸として胴体・四肢の全身をうねるように動かして鋸にちからを伝える。腕は曲げ伸ばしせず同じ形のままで維持し、いわゆる腕力は使わないようにする。体の腹側の力ではなく背中側の力をより使う。
    予想通りいままでの切り方より楽しい。全身の運動量はかなりあるが、運動が偏らないので部分的な疲れがなく、全身をほぐすような心地よい疲れかただ。仕事したーという満足感がある。

    このくらいの太さを切るのに五分かからないだろうか。よく乾いているのでぐいぐいと切りすすむ。三分の一は土に埋もれていたが、腐ってもいず硬いいい薪である。


    冬が終わり暖かくなる時期、たくさんの木が倒れる。雪の重みや冬の寒さで寿命を終えた木々が、春の嵐や強風に吹かれて倒れ、何年もの時をかけて静かに土に還っていくのである。その途中に、ちょっとうちまで寄り道してもらい、暖をとるあたたかさをいただいているのかな。

    この山間に住み始めて、生きている木を切ったことはない。

    ※関連記事
    収穫   (2007.05.22)
    背負子の難   (2007.01.17)
    柴刈り ふたたび   (2006.12.24)
    | 狩り | 21:52 | comments(7) | trackbacks(0) | - | - |
    コメント
    こんにちは。
    実はわたしはこの記事を拝見するまで「柴刈り」のことを「芝刈り」だと思っていました(爆)
    昔話などで「山へ“しば”刈りに」というくだりがありますが、庭に生えてるあの芝を刈りに行くのだと思ってたのね……なるほど、あれは薪拾いだったんだ_| ̄|○

    これからもこちらでいろいろ勉強させていただきます。
    | alphecca | 2006/05/02 12:29 PM |

    追記:
    勝手ながらリンクを貼らせていただきました。今後の活動を楽しみにしております。
    これからもよろしくお願いしますm(_ _)m
    | alphecca | 2006/05/02 12:35 PM |

    Alphecca さんこんにちは。訪問ありがとうございます。
    じつはこの記事の題名の「柴刈り」については補足説明として自分でコメントを書くつもりでした。「しば」というと芝を連想するのが今の人にとっては一般的だと思います。おれもずっとそう思っていました。

    「しば(柴)」とは火を起こし始めるときの最初の焚きつけのことなのです。ですから中国語の「火柴」はマッチのこと、「柴」という漢字本来の意味が残っています。
    やまとことばでは、「しば」は事・物の「はじまり」のことだったと思います。「し」の音も「は」の音も「端」を意味します。「尻」の「し」、「葉」「歯」「端」の「は」です。そして「は」はそこから広がっていく方向性をも表しているので、「しば」は端っこ・先端から起こって広がっていく兆しを意味します。それで火の起こしはじめに使う枝などの焚きつけを呼ぶのですね。

    今記事のカテゴリーは「狩り」にしていますが、柴刈りの「刈り」も狩猟の「狩り」も、「借り」に通じ、もともとは同じことばです。われわれ生きものは様々なかたちで地球と太陽からエネルギーを借りて存在していますが、具体的にそのエネルギーを得る作業を「かり」と、この弓の島のひとびとは言ったのですね。


    本編の記事では実際に行動したことがらを主に書いていきますが、それにともなって思索している色々なことも、コメント欄で書いていくつもりです。
    いろいろと思うことなどあればどんどんコメントをお待ちしてます。

    また、リンクありがとうございました。嬉しいです。こちらからもリンクさせてください。
    | 大口のま | 2006/05/02 7:57 PM |

    こんばんは。詳細なご説明、どうもありがとうございますm(_ _)m

    >柴刈りの「刈り」も狩猟の「狩り」も、「借り」に通じ、もともとは同じことばです。われわれ生きものは様々なかたちで地球と太陽からエネルギーを借りて存在していますが、具体的にそのエネルギーを得る作業を「かり」と、この弓の島のひとびとは言ったのですね。

    これはまさしく狩猟採集民の世界観ですね。
    農耕をしながらこの世界観を持ち続けることも可能だとは思いますが、それには非常に高い精神性が必要です。これまでの人間の多くは、そこまでの精神性を持っていませんでしたが、今後は農耕(+科学文明)と縄文人の自然観の両立が実現するといいなと日々考えている次第です。
    | alphecca | 2006/05/03 3:52 AM |

    まさしくおれもそんなことを考えています!

    縄文人(つまり世界中の先住民・自然民族)のなかへ農耕文明がもたらされた時、世界観は以前のままだったはずです。しかし、ひとの生活が「農耕に依存する文明」を強要されていった場合、自然民族の世界観はその文明維持にとって強力な障害となったのです。自然を支配しなければ存在し得ないものにとって、自然と共に、というよりも正確には自然からの恵みで生きていくという野生人の生きかたは敵なんですね。文明社会で狼が敵とされるように・・・

    しかし亀の大陸(北米)にすむホピのひとびとのように、食の多くをトウモロコシという農作物に頼っていながら、それが大地からの与えられたものだ、大地のちからでひとは生きている、と自覚し続けることは可能です。かれらの言い伝えによると、マヤやアステカのひとびとも、もともとは同族だったのですが、民族の教えを失った部分もあり、あのような都市文明を築いたとか。(でも現代のマヤのひとで、古代マヤ人が巨大都市文明を捨てたのは自然に逆らう生きかただと覚ったから、と言っているひともいます。)

    大事なのはひとりひとりの自覚だと、おれも思います。文化や生活習慣の中で自然との共存ができていたとしても、それが単なる習慣となってしまい、ほんとうの「意味」を自覚する精神性が失われてしまえば、なにかのきっかけで生活はたやすく変化してしまいます。
    Alpheccaさんのおっしゃるように、高い精神性があれば、縄文時代の、つまりいにしへの生きかたをまもりながら、高度な科学文明を駆使する、と言うことも可能だと思います。(実際縄文時代や古代中国、その他いろんな地域での古代は、そうとうに高い科学文明があったと思いますが)。
    ただし、それにはもうひとつ、条件があると思います。それは時間です。あることを実現させるためにはそれ相応の時が必要であり、その時の熟すを待たずに実現させようとすれば必ずどこかへ代償を強いることになるのです。現行する文明は、自然界へ大きな(あまりにも大きな)代償を払わせています。無論、自然へと結びついている人間の部分にも。

    百万年くらいのときをのんびりとかまえていれば、現代のような「物質文化」だって可能だと思いますね〜。
    | 大口のま | 2006/05/03 8:02 AM |

    はじめまして。selfish_brainと申します。
    alpheccaさんのブログから、こちらに伺いました。いつも、alpheccaさんの所で縄文時代について学ばせて頂いています。
    そして、大口さんのブログを拝読させて頂いて、頭に衝撃を受けました。古の縄文人の血と知に出会ったとでも申しましょうか、宗左近氏の縄文物語を読んだときと同じように、細胞が騒ぐような感動を覚えました。
    勝手ながら、リンクをさせていただきます。もし、問題があるようでしたら、お知らせくださいませ。
    それでは、どうぞよろしくお願いいたします。
    | selfish_brain | 2006/05/03 6:49 PM |

    selfish_brainさん、はじめまして。
    コメントとリンクありがとうございます。
    なんだか宮澤賢治風の感想のお言葉、楽しいですね。縄文物語、どんな本かな。

    brainさんのホームページは、alpheccaさんのリンクで知りましたが、まだじっくりと読んでないのでこれから読ませていただきますね。
    今後ともよろしくお願いいたします。
    | 大口のま | 2006/05/03 10:50 PM |

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