お正月飾りと神さま
2006.12.31 Sunday
昨日はお正月飾りをつくる。
大晦日につくるのは「一日飾り」と言ってきらうので、十二月三十日に飾り付けする習わしになっている。一応門松なのかも知れないが、この部落では昔から竹と檜にしめ縄を張ってつくっている。最初に山小師から教わったときは檜ももらっていたが、いまは自分で山へ行き、檜の枝を切ってくる。
木登りには自信があるつもりだが、ひと抱えもある檜の根元近くは枝が落ちていて手掛かりがなく、容易に登れそうもない。かといって丈の低い木から枝をとってしまうのは気の毒なのでできない。手ごろな木を探してうろうろするうちに、斜面を上りきって尾根を歩いていた。
久しぶりに尾根に来た。
いつも家の脇に聞こえている沢の水音も、鳥の声も、勿論人家のさわめきも無い。
冷たい空気に晒された渇いた土と木々たちを、止むことなくゆさぶりつづける風だけがここの世界だ。大地の気配は足下に消え、わずかに残された尾根道だけが地上を感じさせる。おれと木々の周りは空と繋がっている虚空の広がりだ。
ここを治めるのは人界ではない。
太古の昔から変わらず吹きつづける、荒涼として飾らず、暖かさも冷たさもひとしく持合わせる風、級長戸の神。
下界で人が争うとも、まどろむとも、変わることなく吹き荒ぶ無限の繋がりを持ち、そして限りなく空を駆け、行き交う神。
風が大地に降り、土と水とに出会い、命を生み出す。山のいただきは、命の境目だ。
畏れを全身に感じつつひとつの木を選び、抱きつくように登って枝をいただく。冷たい風に晒されていても、木は温かい。

神さま飾り
神社からいただいた神さまのほかに、今年はヲシテ(ホツマ文字)を使って神符を書いた。山で生きていく上でいちばん尊敬する神の名と、山の神・海の神、宇宙の法則を表す三つの図、星界の代表として北斗七星。そして最後に、一年前の歳の暮れに魂の世界へ旅立って行った猫の本名(マナ)。抜け殻(体)は庭の金木犀の木の下に埋めたけれど、まだこの家のまわりにいるような気がして、けれどもこの世に引き止めたいわけじゃないから位牌ではなく、護ってくれていることへの感謝の気持ちとして、祀ることにした。

たくさんのいのちが生きている。小さないのちも、いっしょうけんめい生きている。いっしょうけんめい生きて、存在して来ている。
存在しているということは、大きなちからだ。
みんな、つよくて、偉大なちからをもっている。
一日一日の積み重ねが一年となり、年年が積み重なって長いながい時間がつむがれていく。
切りはなされているものは何もない。自分へと繋がって来たいのち、風も、岩も、光も、自分という「ひと」をとおりぬけて、またたくさんのいのちや、声や、熱となってつむがれていく。
一日一日は変わらないその日の暮らしでも、夏は秋になり、冬になり、また春となっていく。ただ生きているそのことが、あたらしいいのちを生み、絆をむすび、ゆるやかなしかし大きなうづを巻いて地球というひとつの樹をうかばせている。
変わらない日日にちょっと区切りをつけて、そんな足元の、同時にはるか頭上の空のかなたのこと(自分が消えてからもながれつづけるはるかな時のむこう)を、呼吸とともに感じてみるのもいいかもしれない。
ミタクエオヤシン―――わたしに繋がるすべてのものへ
(時空間をこえて、このブログを観ているみなさんにも)
健やかで、平和な年をつむぎなしてゆけますように。
よい、お歳を。
大晦日につくるのは「一日飾り」と言ってきらうので、十二月三十日に飾り付けする習わしになっている。一応門松なのかも知れないが、この部落では昔から竹と檜にしめ縄を張ってつくっている。最初に山小師から教わったときは檜ももらっていたが、いまは自分で山へ行き、檜の枝を切ってくる。
木登りには自信があるつもりだが、ひと抱えもある檜の根元近くは枝が落ちていて手掛かりがなく、容易に登れそうもない。かといって丈の低い木から枝をとってしまうのは気の毒なのでできない。手ごろな木を探してうろうろするうちに、斜面を上りきって尾根を歩いていた。
久しぶりに尾根に来た。
いつも家の脇に聞こえている沢の水音も、鳥の声も、勿論人家のさわめきも無い。
冷たい空気に晒された渇いた土と木々たちを、止むことなくゆさぶりつづける風だけがここの世界だ。大地の気配は足下に消え、わずかに残された尾根道だけが地上を感じさせる。おれと木々の周りは空と繋がっている虚空の広がりだ。
ここを治めるのは人界ではない。
太古の昔から変わらず吹きつづける、荒涼として飾らず、暖かさも冷たさもひとしく持合わせる風、級長戸の神。
下界で人が争うとも、まどろむとも、変わることなく吹き荒ぶ無限の繋がりを持ち、そして限りなく空を駆け、行き交う神。
風が大地に降り、土と水とに出会い、命を生み出す。山のいただきは、命の境目だ。
畏れを全身に感じつつひとつの木を選び、抱きつくように登って枝をいただく。冷たい風に晒されていても、木は温かい。

神さま飾り
神社からいただいた神さまのほかに、今年はヲシテ(ホツマ文字)を使って神符を書いた。山で生きていく上でいちばん尊敬する神の名と、山の神・海の神、宇宙の法則を表す三つの図、星界の代表として北斗七星。そして最後に、一年前の歳の暮れに魂の世界へ旅立って行った猫の本名(マナ)。抜け殻(体)は庭の金木犀の木の下に埋めたけれど、まだこの家のまわりにいるような気がして、けれどもこの世に引き止めたいわけじゃないから位牌ではなく、護ってくれていることへの感謝の気持ちとして、祀ることにした。

たくさんのいのちが生きている。小さないのちも、いっしょうけんめい生きている。いっしょうけんめい生きて、存在して来ている。
存在しているということは、大きなちからだ。
みんな、つよくて、偉大なちからをもっている。
一日一日の積み重ねが一年となり、年年が積み重なって長いながい時間がつむがれていく。
切りはなされているものは何もない。自分へと繋がって来たいのち、風も、岩も、光も、自分という「ひと」をとおりぬけて、またたくさんのいのちや、声や、熱となってつむがれていく。
一日一日は変わらないその日の暮らしでも、夏は秋になり、冬になり、また春となっていく。ただ生きているそのことが、あたらしいいのちを生み、絆をむすび、ゆるやかなしかし大きなうづを巻いて地球というひとつの樹をうかばせている。
変わらない日日にちょっと区切りをつけて、そんな足元の、同時にはるか頭上の空のかなたのこと(自分が消えてからもながれつづけるはるかな時のむこう)を、呼吸とともに感じてみるのもいいかもしれない。
ミタクエオヤシン―――わたしに繋がるすべてのものへ
(時空間をこえて、このブログを観ているみなさんにも)
健やかで、平和な年をつむぎなしてゆけますように。
よい、お歳を。
