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山あいで狩猟採集生活を目指す野楽生(のらぶ)のあしあと

野楽生れば

<< 槍作り、完成 | main | 続、鹿解体・前編 >>
罠という狩り
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     槍が出来上がったのでいよいよ罠を仕掛ける。熊つぁんに教わりながら作った罠だ。
     仕掛け方は一度見学させてもらっただけ、あとは熊つぁんの語ることばや表情から読み取った雰囲気、そして山歩きしながら沢山の鹿の足跡を見てきた経験をたのみとしての決行だ。自分の人臭をいかに残さないようにするか、鹿の歩幅は、などなど考えながら作業するものの、経験の無さからくる不安は消えない。成功の場面を思い描いても、蝕感をともなわないそれはどうしても現実感に欠ける。
     一方で、この罠によって命を落とすことになる鹿のことを想う。本来ならば(野生のおきての上ならば)元気に生き、山を駆け巡り子供を育てていく者かもしれない。おれの狩りの介入はおきてにそむく行為となりはしないか。不安と罪悪感に、答えは出ない。

     「狼がいなければ、鹿の種族は絶えていた」
     「狼が鹿たちを狩ることで、鹿はつよい種族となっている」
     ずいぶんと前に生物学の本で読んだことやインディアンの狩人のことばが甦る。生きるために狩りをすることは、野生の世界の秩序の一つだ。おきてを守り、礼儀(感謝)を知っての行いこそ、狩りだ。
     おれもそのような狩りをこころに描きつつ罠を仕掛け、山を下りていった。

     結果を述べると前猟期間中は一頭も獲れなかった。週末や祭日ごとに銃をもった人間が歩き回るようになる山に、鹿たちは避難の必要を感じ、さらに深い山奥へと逃げて行く。罠の様子を見にいくおれとしては、家からあまり離れた所へ毎朝行く時間を作りだせず、仕掛ける範囲はおのづと限界が決まってくる。
     仕事の都合等で猟期開始からしばらく経ってから仕掛けたために、罠の付近には新しい足跡が着くことは一度も無かった。罠で獲れるのは猟期後ひと月くらいだよと熊つぁんが言っていた、その通りだった。

     けれども、朝の空気の中で山を上っていくことは、深く、大きな経験だった。目覚めの意識の中で鹿のことを思う。着替えをし地下足袋を履いて槍を携えながら、家を出る身はどうしても緊張してしまう。これからおれは、命を獲るかもしれないのだ。ひとつの生命に終わりをもたらすのかもしれない。
     山道をあるくこころには祈りにも似た思いがある。
     鹿がかかっていなければいい。空振りの罠を確認して、なぁんだと胸をなでおろし、薪にする倒木を担いで帰ればその方がいいじゃないか。
     反面、鹿の肉がほしい。家族に持って帰りたい。おれたち一家が生きていく上でその肉は、多分に必要なものなのだ。
     矛盾している思いが二つ、常に気持ちの中にあるものの、それは不思議さを感じるものではなく、自然な、切ない心境だった。

     仕掛けた場所に近づくおれの耳は鋭くなっている。草葉を踏みつける音が大きなものに思える。鹿の気配はしないか。熱をもった息の声が聞こえはしないか。罠にかかった鹿から見れば、おれは死の形だ。
     倒木を持って帰宅し不猟を報告する時はすでに残念な気持ちが前面に出ている。明日こそはかかるといいのに、などと思ったりする。
     その繰り返しだった。

     だれかに、野生の狩りの掟を知っているひとに、その鹿を狩ってもいいのだよ、と許可してもらいたい。おれの行為を完全肯定してもらいたい。 しかしそれは虫の良い思いなのだろう。命の重さには自分自身で向き合い、迷いも苦しみも しょっていかなければいけないのだろうから。


     収穫の無かった猟期が終わり二ヵ月後、駆除申請という方法で再度罠を仕掛け、おれは二頭の鹿を獲った。



    ※関連記事
    槍の柄作り〜野生の狩人をめざして   (2007.11.16)
    猟期前   (2007.10.25)
    道ゆく鹿   (2006.09.24)
    罠を仕掛けに   (2006.03.21)

    ※よくコメントを書いてくださるalpheccaさんが、ご自分のブログで食べものについて・食べることについての考察を掲載されました。この記事でおれが書こうとしている内容と同じ本質のものだと思い、紹介いたします。
    縄文の風、たましいのこえ「殺すこと、食べること、生きること」
    | 狩り | 08:54 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
    コメント
    大口のまさん、こんばんは。

    >だれかに、野生の狩りの掟を知っているひとに、その鹿を狩ってもいいのだよ、と許可してもらいたい。おれの行為を完全肯定してもらいたい。 しかしそれは虫の良い思いなのだろう。命の重さには自分自身で向き合い、迷いも苦しみも しょっていかなければいけないのだろうから。

    都市部に生きているわたしたちにとっては、とても重い言葉ですね。胸にグッと来ました。
    でも本来は、人間すべてが向き合わなければならない問題でもありますね。

    先日図書館で借りた『東北学』の本に、こんなくだりがありました。

    ――アラスカのエスキモーの間でも、狩りの伝統は失われつつある。
    老齢のハンターのもとに、少年が食糧を求めてやってきた。そこでハンターは少年に狩りの手伝いを頼むのだが、少年は狩り(=殺生)には関わりたくないと拒む。しかし肉は食べたいのだ。
    その少年はやがて成長し、白人が住む都市部に出てゆく。しかし伝統的な生活をやめ、何の技能も身に着けてこなかった彼には働き口がなく、生活保護を受けながら無為に月日を過ごすだけの身となってしまう――

    一度さっと目を通しただけなので間違いはあるかもしれませんが、だいたいこんな感じ。
    エスキモーの社会でも、日本人同様、自分が食べているものの出所がわからないような生活が浸透してきているようです。

    わたしは常々、「人間は自分が食べているものがどんなものなのか――それがどのように生きていて、誰が殺して(もちろん植物も含めて)、誰がどのように加工・料理したのか――を知らなければ、宇宙や自然との絆が失われてしまう」と考えています。
    それを知ることで、はじめて人間は自分が生きている理由や意味を実感することができるわけですね。そこで「生かされている」という気持ちも沸いてくるというものです。

    もちろん殺生は殺される方・殺す方、双方にとってつらいものです。現在は楽しみのために殺す人も多いですが、そういう人はわたしが見た限り、例外なくどこか病んでいますね。
    本来は殺生というのは必要があるからするものであって、大口のまさんがおっしゃるように、自分が奪った命の重さとしっかり向き合わなければならないものなのです。
    楽しみのためだけに殺す人や、自分が生きるために為された殺生から目をそらしている人は、真に生きる意味というものを知ることはないでしょう。

    長々と偉そうなことを書いてすみません。
    でも、人間とは他の命を奪わなければ生きてゆけないものです。
    だからその事実と向き合える大口のまさんは、現代人の中でも強く、そしてかなり幸福な人なのではないでしょうか。

    わたしも近頃は、自分が生まれ育った長野県北部の伝統食について勉強しています。そしてこの食生活を現代に復活させたいと考えています。こちらは菜食主義に近いものですが、それでも殺生は避けられません。

    自給自足というのは、人間の体よりもむしろ精神にとって必要なものなのかもしれませんね。
    わたしもいずれは田舎で農業をして暮らそうと思っています。
    | alphecca | 2008/10/16 1:13 AM |

    alpheccaさん、こんにちは。

    お話しくださったエスキモーの老人と少年のこと、短い文章の中に重要なことを描いていますね。
    「自然界には、一方的に“もらう”ということも一方的に“あたえる”ということもない。もらうときはあたえ、あたえるときはもらうのが、約束なんです」という意味のことをタシナ・ワンブリさんが言っていました。老ハンターは少年に自然界で生きる道を開き示したのに、少年はその道を自ら閉ざしてしまうほどに大地から切り離されてしまっていたのですね。

    野生の世界から人間の世界へ
    その少年のたどった道は現代へ至る人間の道そのままの象徴に思えます。

    自分の能力を発揮することを知らないまま生きてしまうと、ひとは誇りを見失ってしまいます。先祖からうけついでいる血の誇り、大地の誇り。
    誇りを失わせることが、いのちを“目に見えるもののみの世界”に伏せ従わせる最強の要素なのでしょう。

    伊那谷に育ったひとが五・六十年間の日本の動向を、明治維新よりも戦時・敗戦よりも“弓の島”の生活を壊した、と述べています。
    幼少時に友だちと遊びながら獲った魚や虫、それは家庭での食料として日常に役立っていた、子どもの頃からそうして“生きる”ということを肌で感じ、またそれが可能な風土(ふるさと)の環境を肌で感じることだった。
    それが雪崩の如く急激に破壊され、山は木のある砂漠と化し、人々は都市部に集中することでなんとか命の維持を保とうとして、自分の能力を使って生きているということを忘れてしまった。知り得なくなってしまった。

    「いままで生きてきた、それだけであなたは強いのです」
    自分の強さを知らないこと、自分が自分のちからで生きていることを理解できないこと。これがいのちにとって最も理不尽なことであると、現代の惨い殺人事件に垣間見える悲鳴からも確信を強めます。
    だからalpheccaさんのことばは正確に的を射ていると感じます。
    「自給自足というのは、人間の体よりもむしろ精神にとって必要なものなのかもしれませんね。」
    ほんとうにそうですね。このことばを読んで目から鱗が落ちた心地です。


    おれのつたない文章を真正面から読んでくださってありがとうございます。コメントしていただけることでおれはおれの思考を別の角度からも眺めることができ、自分の視野を広げていくことができます。同じ大地に立つ仲間との交流という、とてもうれしいことです。

    土のあるところでの暮らしの実現、はやく訪れることを祈念しています。草たちを育て共に生き、いただきあたえること。地球という樹の、おれたちも一部です。
    | 大口のま | 2008/10/18 9:13 AM |

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